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Special Interview - トニーニョ・オルタトニーニョ・オルタ 最新インタビュー


 

■エリス・レジーナのバンドに参加したことについて教えてください。

 
トニーニョ・オルタ 偉大な音楽家で作曲家である同郷の友人、ネルソン・アンジェロがリオから電話をくれたとき、僕はまだベロオリゾンチに住んでいました。ミナスのフェスティバルや、ギター・イベントなどで何度も共演し、タヴィート、ウーゴ・ルイス、ルイジーニョ・ダ・ギターハ、カリンなどとも一緒にギターをもってどこかの家で集まってセッションをしたりして、当時はみな、誰が一番優秀な音楽家なのかってということを気にしていました。笑
「もっとたくさんチャンスもあるし、リオに引っ越しておいでよ。”ア・トリーボ”というグループを結成したんだ。一緒にやろうよ。」とネルソンが言ってくれて。とても嬉しかったのですが、あてもなく行ってリオに住む経済的余裕はありませんでした。そうしたら、彼が「とりあえずバスに乗って来い。今ヒットしているエリス・レジーナのバンドのオーディションがあるから、一緒に受けよう」と僕を説得したのでした。ネルソンはエリスの制作チームに、ギタリストを1名ではなくて、2名採用するようかけあいました。友情でした。そうして、ネルソン・アンジェロと僕と、ペルナンブーコからリオに着いたばかりだったベーシストのノヴェリとがバンドに加入しました。それはもうとてもうれしかったです! リハーサルに参加し、国内のツアーに出る前にスタジオで録音しました(トニーニョはエリス・レジーナの1970年作『Elas』の録音に参加している)。ブラジルの各地を回ったのはそれが初めてでした。遊び心のある彼女との演奏の仕事はとても楽しかった。僕の穴の空いた他人のシャツに指を突っ込んできて、そんなにギャラが低いかしらと冗談を言ったり… 当時僕はちょっとヒッピーで、音楽のことしか頭になく、お金や衣装のことなどそっちのけでした。素晴らしいバン・ドメンバーと、旅や録音の良い思い出がたくさんあります。当時僕は21歳の若造で、メネスカルが演奏することになってしまい「デザフィナード」の伴奏ができなかったことが悔しかったのを思い出します。「僕のハーモニーの方が彼よりもいいのに」などと思ったものでした(笑)その頃、僕はジャズとクラシック音楽をたくさん聴き、自然なかたちでギター奏法を発展させ、洗練させることができたと思います。日本公演では、インスピレーションのもとだった偉大なジョアン・ジルベルトへのオマージュとして僕なりにこの曲をやります。
 サンパウロで行ったコンサートには、夜の街の第一線で活躍する素晴らしい管楽器のメンバーが揃っていました。僕は、コードや楽譜を読みながら(実はあまり楽譜を読むのは得意ではなかったのですが、ほぼ暗記していました)僕のアイドルのひとり、ラニー・ゴーディンと演奏したりしていました。そんなある日のことでした、彼女がもうひとつ別のバンドを組むと決めました。とにかく、1970年、僕たちはエリスと一緒に演奏していました。
 1974年、姉でマネージャーのジルダ・オルタと僕が住んでいたアパートに、エリスが当時の恋人だったセーザル・マリアーノと一緒に訪ねてきたことありました。1974年は、彼女がトム・ジョビンと録音した年で、ルイザォン・マイア、パウロ・ブラガ、そしてセーザルがメンバーだったあのスーパーバンドに僕も参加して欲しいと言われました。でも、その時、僕は彼女のバンドに戻るより、ミルトン・ナシメントやソン・イマジナーリオと演奏することを選択したため、訪ねてきたふたりは落胆してレブロンの僕のアパートを去りました。エリスはこれまでに共演してきた歌手たちのなかでもっとも偉大な一人でした。
 

■クルビ・ダ・エスキーナについて教えてください。

 

トニーニョ・オルタ  クルビ・ダ・エスキーナというボサノヴァに次ぐブラジル音楽における大きなムーヴメントについて、すでに多くの本、ウェブ、雑誌等で大量の情報が発信されていますね。
 僕が15歳のとき(1963年頃)、兄のパウリーニョが “ビトゥーカ” 、のちにミルトン・ナシメントというアーティストに成長する彼を我が家に連れてきました。ビトゥーカは当時22歳くらいで、パウリーニョが僕になにか弾いて聞かせてと頼んだあと、ビトゥーカは自分の曲を何曲歌って聞かせてくれました。忘れられない夜です。友人たちが集い、演奏し、踊り楽しいひとときを過ごしたあとの、深夜の我が家のキッチンでの出来事でした。
 ビトゥーカはパウリーニョとベロオリゾンチの、夜の街で、バイリ(ダンスパーティー)で出会いました。ビトゥーカは、当時、パウリーニョが演奏していたのと同じ楽器(コントラバス)を演奏していて、ローとマルシオの兄だったマリルトン・ボルジェスが率いるジェミニVIIというバンドに加入しました。
 1966年、僕とビトゥーカは「Segue em Paz」という曲を共作し、翌年リオの歌謡フェスティバルに招かれました。僕たちにとって転機のひとつでした。1969年には、学生歌謡フェスティバルも開催され、新しい才能が多くそこから誕生し、その中には、ロー・ボルジェスやベト・ゲヂスなど、青春時代の友人たちがいました。僕は1970年代の初頭に、ベロオリゾンチからリオに移り住んで、さまざまな有名アーティストたちの録音に参加していました。

 1972年、ミルトンとホナルド・バストスは新しい才能を持った若いミュージシャンを招き、後にブラジル音楽における分水界となることをやろうと企てました。歴史的な作品となったそのアルバム『クルビ・ダ・エスキーナ』は、非常に自由に作られ、みんなでアレンジし、みんなが演奏可能な楽器を演奏しました。各曲がそれぞれに異なったアイデンティティをもっているので、同じ楽器編成にならないように、午前と午後とで交代でミュージシャンが入るという工夫もしました。僕は音楽一家のもとに生まれたので、ギター以外にもコントラバス、ドラム、ピアノ、パーカッションなどの楽器に少しずつ触れていて、音楽の楽理についての知識がすでにあったので、それなりの貢献ができたと思います。ローとベトはそのとき一番若いメンバーで、彼ら自身の曲に関して、意見を言っていました。感動的な時間でとても創造性な時間でした。皆、今日まで友達です!!!

 


■「トニーニョ・オルタ はハーモニーの王だ」── トム・ジョビン

■「どの国に暮らす音楽家だって、創造性が豊かで唯一無二のスタイルを持つトニーニョ の楽曲が好きだ。メロディックで調和のとれた曲の展開は重力に逆らって進むようだ」── パット・メセニー

 

 1948年12月、ブラジル、ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンチ生まれの生粋のミネイロ(ミナス人)。幼少の頃より母親から手ほどきを受けながら独学でギターを学んだトニーニョ・オルタ。10代の頃にミルトン・ナシメントと出会い、その後「クルビ・ダ・エスキーナ」「ソン・イマジナリオ」などに参加し「ミナス・サウンド」創世の立役者となったことをご存知の方は多いだろう。
 その後は、アメリカを活動拠点とし、ハービー・ハンコックやウェイン・ショーター等国際的ジャズ・ミュージシャンとも共演してきた。パット・メセニーやジョージ・ベンソンら国際的ジャズ・ギタリストに大きな影響を与えたことでも知られる。
 今年はトニーニョ・オルタのキャリア50周年&70歳の年であるが、その瑞々しく透明感があり、温もりがあるサウンドに更に磨きがかかっている。
 間もなく、日本で彼の音楽を生で聴くことができる。来日を前に、トニーニョにインタビューを行った。

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── キャリア50周年を記念したアルバムが、来日を記念して日本盤として発売されます。これはどんなアルバムなんですか?
トニーニョ・オルタ(以下、TH) 2枚組のアルバム『Belo Horizonte』で『Belo』と『Horizonte』の2枚です。ぼくのバンド「Orquestra Fantasma」の2つのタイプの楽曲を演奏しています。
 ディスク『Belo』では、ゲスト歌手を招いて、ぼくのヒット曲を新しいアレンジで演奏しました。日本からは小野リサも特別ゲストとして録音に参加しています。
 ディスク『Horizonte』は、グループのメンバーの楽曲を演奏しています。グループには3人のソングライターがいて、ぼくとアンドレ・デキチ(Andre Dequech)、ユリ・ポポフ(Yuri Popoff)の3人です。こちらのディスクは、基本的にはインストゥルメンタルです。
 ぼくのキャリア50周年を祝うアルバムであると同時に、バンド「Orquestra Fantasma」のデビュー38年を祝うアルバムでもあります。個人個人は活動を積み重ねてきましたが、このメンバーで人前で演奏をすることはこれまでそれほど多くはありませんでした。これを機会に「Orquestra Fantasma」としてもライヴ活動を行っていければと思っています。

── 今回の公演で共演するヂアナ・オルタ・ポポフとマチアス・アラマンのお2人について紹介していただけますか?
TH ヂアナ・オルタ・ポポフは、私の姪にあたるけれど、洗練されたハーモニーと独創的なメロディーの音楽を創造し、偉大な音楽家への道を独特の敏感な感性で歩んでいる才能豊かな音楽家です。
 マチアスは、ヂアナの夫で、フランスのジャズ・シーンでファースト・コールのベーシストのうちの一人です。ぼくは今まで一緒に演奏したことがあまりありませんが、今回一緒に演奏できるのを楽しみにしています。

── 音楽はあなたにとってどんな意味を持ちますか?
TH 音楽を通して、自分の気持ちを表したいと思っています。愛や調和を伝えることが、僕ら音楽家にとっての義務であると考えています。
 自分のベストな音楽を人に伝えるようにしています。僕は小さいころにクラシックやジャズを聴いているせいか、複雑なハーモニーを使ったりしているけど、シンプルなメロディーラインを失わないように気をつけています。聴く人に良い活力を感じてもらいたいと思っています。
 だから僕は日本へ行くと、日本の人たちが僕の歌を歌ってくれるのが本当に嬉しくて、アットホームな空間を感じて、楽しく演奏ができます。音楽を通じて人と家族になれるんだ。音楽は僕の人生全てなんです。

── あなたが生まれ育った音楽的バックグラウンドを教えてください。
TH 最初にボクの中に入ってきた音楽はクラシックでした。3歳の時に、ドビュッシーを聴いて涙を流していました。それから、母が聴いていたミナスのフォーク・ミュージック、たとえばモヂーニャやワルツ、ショリーニョなんかがボクの中にズーっと残っています。
 ミナスにはスペインやポルトガルから来た音楽がたくさんあって、そういうヨーロッパ的な音楽環境の中で、ぼくだけじゃなく、「クルビ・ダ・エスキーナ」の友人たち、つまりミルトン、ロー・ボルジス、ベト・ゲヂスたちも育ったんです。

── ミルトンたちと知り合ったきっかけはどういうきっかけだったんですか?
TH ボクの兄はプロ・ミュージシャンで、しょっちゅう家に仲間を呼んで演奏してたんだけれど、ぼくもその中に加わってギターを弾き、16歳の時には自分で作曲するようになっていました。まだプロになるなんて考えてもいなかった頃です。
 その仲間の一人にロー・ボルジスとマルシオ・ボルジスの兄のマリウトンがいて、それからローたちと知りあい、とある深夜、ミルトンもやって来ました。60年代の中頃で、まだボクは10代でした。ぼくは仲間たちと一緒にミルトンのために歌って、ミルトンはぼくたちのために歌いました。そのようにして仲間の輪が広がっていきました。

── 「クルビ・ダ・エスキーナ」の仲間の音楽家の音楽にあるミナス的感性というのは、一体どこから来ているんでしょうか?
TH まず「クルビ・ダ・エスキーナ」のメンバーは、基本的にコンポーザーです。そしてほとんどのメンバーがズーっとミナスに住み続けています。ロー・ボルジスに、ベト・ゲヂスに、タヴィーニョ·モウラに……。ミルトンもよくミナスに帰ってきます。そしてぼくたちの音楽の作り方は共通していて、常に自分の内面にあるものを出そうとしています。だから当然、ボクたちが育ったミナスの音楽的、文化的な背景が音楽に表われてきます。
 同じミネイロでも、たとえばジョアン・ボスコは積極的にいろんな情報を取り入れて、自分の音楽のキャパシティをどんどん広げることに成功していますが、ぼくたちの音楽へのアプローチの仕方はちょっと違うんです。そもそもミネイロの気質は内気だから、どうしても自分を大切にしようとします。ぼくもショーロやバイオン、ショッチといった、ブラジルのいろんな所で生まれた音楽を知ってはいるけど、それ以上にミナスの音楽のすばらしさ、豊かさを知っています。メロディにせよ、ハーモニーにせよ。それを、ミナス以外の出身の音楽家はほとんど取り入れていません。ボクたちだけがやっているんだ。ボク自身もいろんな音楽から影響を受けてきたし、いろんな所に出かけるようになったけど、我が家は常にミナスなんだよ(笑)。

── あなたはコンポーザーであり、ギタリスト、シンガー、アレンジャーですが、その中で第一に何であると考えますか?
TH コンポーザーです。作曲する時に、オーケストレーションが浮かんできます。昔からシンフォニックなオーケストラ、ラヴェルからスタン・ケントン、クラウス・オガーマン、ヘンリー・マンシーニ、などを聴いてきたし、ブラジル国内の音楽家ではヴァグネル・チゾやドリ・カイミのオーケストレーションに影響を受けてきました。
 ただ、ぼくの基本になる楽器は常にギターで、ギターでどこまでシンフォックな広がりを表現できるか、それを追求してきました。非常に困難な作業ですが。
── 歌うことについてはどう考えていますか?
TH ギターとヴォーカルがいつも一体になっていて欲しいと思っています。ギターのテクニックだけを追求して、速弾きをすることにはずっと興味がありませんでした。ギターを優しく抱いて、愛情をこめて弾いています。歌にも愛情を込めています。

── 最後に、日本にどんな印象を持っていますか?
TH そのもてなしの心と私の音楽への敬意の念の大きさを感じ、日本は大好きな国になりました。日本という素晴らしい国の文化や料理を行くたびに楽しんでいます。