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Songsトニーニョ・オルタ自身が語るトニーニョの名曲(随時更新!)

#8
■Manuel O Audaz
■作詞作曲:Fernando Brant, Toninho Horta
「Aqui Ó」と同時期に(1969年)、フェルナンド・ブラントとともに作曲した曲。ブラントは当時乗っていたランド・ローバーであちこち出かけては泥だらけで過ごしていました。曲は自然、青春、喜び、信仰、学びについて歌っています。マヌエルというのは、人間の姿。50年にわたり多くのアーティストが歌い継ぎ、ミナスの音楽を愛聴する人々の賛歌の一つとなりました。


#7
■Durango Kid
■作詞作曲:Fernando Brant, Toninho Horta
 このバラードポップはフェルナンド・ブラントとの2曲目の共作曲です。実は最初、詩の意味が僕にはわかりませんでした。ブラントは、少年時代にみた、モノクロ映画『Durango Kid(拳銃キッド、1940年公開)』にインスピレーションを得ていました。友人のビトゥーカ(ミルトン)はこの曲を、「Som Imaginario」と一緒に録音しました。僕が、ビトゥーカや「Som Imaginario」とリオで音楽劇「Opinião」に出演したのと同じ年でした。それは、ビトゥーカのリオでの初めてのステージであり、当時のビトゥーカのマネージメントをしていた企業家のジョゼー・ミンセンとプロデューサーのジルダ・ホルタの招待を受けたものでした。


#6
■Céu De Brasília
■作詞作曲:Fernando Brant, Toninho Horta
  ここだけにしかない大きな空が広がる、素晴らしい中央高原が広がるその街に僕はいました。「Saguin」と同じ頃、僕はそのすごい景色に圧倒されたままベロオリゾンチに戻り、あの無限のブラジリアの空にインスパイアされてメロディーとグルーヴを書きました。カセットテープに録音した曲をフェルナンド・ブラントに送って、それをタイトルにしてほしいと頼みました。フェルナンドは、「でも僕はブラジリアに行ったことがない」と言いましたが、僕は「なんとかして作詞してみて。そうして初めてのこの場所の素晴らしさを伝えることができるはずだ」と主張しました。そうしてブラントは光を放ち、僕が知る中でももっとも美しい詩を書き上げたのです。


#5
■Bons Amigos
■作詞作曲:Toninho Horta, Ronaldo Bastos
 同じメロディーを異なるハーモニーとともに繰り返す、エルロン・シャヴェスというマエストロの曲にインスピレーションを得ました。僕にとって初めてこの様式で作曲をした実験的な曲で、「Antiga」というインストゥルメンタル曲もできました。リオのレストラン、グアナバーラで過ごしたある夜、ヴァギネル・チゾがそこにいたパウロ・モウラのために新しい曲を聴かせてほしいと僕に頼みました。サンバ・カンサォンをそこにあった紙に書いてマエストロに渡しました。しばらくして、ホナウド・バストスが作詞をして、タイトルを「Bons Amigos」に変え、ナナ・カイミが録音しました。

#4
■Belo Horizonte
■作詞作曲:Toninho Horta
 僕の故郷の街「Belo Horizonte」が100周年をむかえたとき、街のために作曲をしてほしいと依頼されました。あまり有名にはなりませんでしたが、曲は生き続けて、オルケストラ・ファンタズマと一緒にリリースする僕の新しい2枚組のアルバム『Belo Horizonte』のタイトルとなりました。息子がある日こう言いました「お父さん、ミルトンは『Minas』とと『Gerais』というアルバムを作ったよね。お父さんも『Belo』と『Horizonte』というアルバムをつくったらいいじゃん」と。このアルバムは、僕のキャリア50周年と、オルケストラ・ファンタズマの38周年を祝うものです。オルケストラは近年、2公演か3公演を行っただけで、公演をしていませんが、僕の音楽にとっては欠かせない存在です。ユリとアンドレは傑出した作曲家で、アレンジャーで、素晴らしい人格者であるほか、素晴らしい演奏家でもあります。ネネンは、太鼓でバンドをオーケストラサウンドで満たす多様な音響を生み出す創造者。レナは夢のフルートを演奏し、偉大な音楽家たちとを家族として僕を結びつけてくれた人であり、天使たちの音、鳥たちのさえずりを再現します。私たちはみな、音楽的に共通の語法を用いて、素朴さや友情、音楽への情熱をもち、それぞれに共鳴し合っています。


#3
■Beijo Partido
■作詞作曲:Toninho Horta
 青春時代の苦い失恋の体験をもとに作詞しました。まだ少年だった僕と、もう亡くなってしまった作曲家だったいとこのルシオ・タデウと一緒に夜行バスにのってベロオリゾンチからリオへ移動したときでした。当時買った英国製のカストナーのピアノが家にあって、アパートに着くなり、頭の中にあったメロディーを弾いて、40分ほどの時間で作詞をしました。その曲は長い年月を経て、ボサノヴァのハーモニーとの分水界のような位置づけをされ、世界中の多くのアーティストによってカバーされました。


#2
■Aqui Ó
■作詞作曲:Fernando Brant, Toninho Horta
 フェルナンド・ブラントとの初めての共作で、ミルトンの 「Beco do Mota」「 Pai Grande」が入った1969年のLP(『Milton Nascimento - 1969』)におさめられました。僕はギターを演奏し、「Na varanda encontro o meu amor(バルコニーで僕の愛する人に会う)」とパーカッションのパウリーニョ・ブラーガとナナ・ヴァスコンセロス(もしくはホベルチーニョ・シルヴァだったか)とソルフェージュしました。「Aqui Ó」というのは、父がベロオリゾンチでやっていた小さな商店の名前で、その後「Espaço Cultural e Bar(文化スペース兼バー)」になった場所です。2011年から僕がやっているベロ・オリゾンチのインストゥルメンタル音楽を救出する活動の名前「Jazz Aqui Ó」にしました。


#1
■Aquelas Coisas Todas
■作詞作曲:Toninho Horta
 ルイス・アルベルト・サルトリ監督の、歴史的な街に生きる人物を主人公としたドキュメンタリー『Dona Olímpia de Ouro Preto』のために書いた曲です。1970年にオウロ・プレットの坂道などにインスピレーションを得て、「Dona Olímpia」、 「Serenade」、 「Igreja do Pilar」、「Aquelas Coisas Todas」の4曲を書きました。このインストゥルメンタル曲は、1970年代の終わりに、カリフォルニアのグルポ・ヴェラスやノーマン・コナーズ&スターシップ・オーケストラなどのグループがカバーされています。