斎藤充正氏によるRUBEN RADAの決定的記事が開始!

アストル・ピアソラの世界的権威である斎藤充正氏は、ルベン・ラダの大ファンとは聞いていたが、ラダについての記事も凄い。本当はスペースをたくさん割ければ限りなく書いて頂けるのだろうが、今回から何回かに分けて掲載する。ウルグアイ、アルゼンチンもびっくりの詳しい、正しい情報がびっしりです。
是非ご一読下さい!!!

RUBEN RADAという音楽家

世界中に南アメリカ、ウルグアイのポピュラー音楽を紹介、形を変えながらその根本的な魅力を植え付けてきたスーパー・レジェンド、ルベン・ラダが、とうとう日本にやってきます。コロナ禍で難しい時期でしたが、日本公演は絶対にやる!とすべての問題を吹き飛ばしてくれました!

一般的な短いProfileと詳しいBiographyと2種類掲載しています。

強力な来日メンバー

本には最強メンバーで臨むと宣言していた通り、人気ギタリストの息子マティアスを含む7人の最強ミュージシャンたちに、娘のグラミー・ノミネート歌手フリエタを加えて….ホンモノのカンドンベ・ビート満載のステージ!

 モンテビデオの古いカンドンベのタンボレスの巨匠に、現代のサウンド・クリエーターたち、全員がルベン・ファミリーで、一緒に活動する仲間です。

日本公演日程

11月25日から12月15日まで、全国15回公演。まだコロナが心配な時期ですが、来日メンバーは全員ワクチン3回を接種し、万全の体制での来日予定です。マスク、手洗いなどの感染予防対策にご協力ください。

感染に気をつけながら、大いに盛り上がりましょう!

ルベン・ラダの世界的活躍

南アメリカの小さな国ウルグアイ
カンドンベなど豊かなポピュラー音楽を
ロック、サンバ…あらゆる音楽に融合して
世界の表舞台に引きあげた…

南アメリカの小さな国、ウルグアイの、カンドンベなどの豊かなポピュラー音楽を世界中に運び、種を蒔き、
世界の音楽家たちに愛されてきたスーパー・レジェンド、
ルベン・ラダ がいよいよ日本にやってくる。

1965年、ルベン・ラダは
ロックとラテンアメリカの音楽を融合した

「エル・キント(
El Kinto) というグループを結成。
彼のカンドンベ・ビートは、ロック、カンドンベ、ブラジル音楽、その他色々なスタイルをミックスしたもの。

これが、 ルベン・ラダの音楽人生の始まりだった。

このグループの台頭から、南米でも世界でも
ラテンの音楽とロックの混合バンドがたくさん生まれるようになった…

ブラジルでも若者たちの大きな音楽ムーブメントが起こされていた1969年、
ルベンは、リオで開催されたポピュラー音楽フェスティバルに参加して大評判となり、1年後に
「トーテム(Totem)」というバンドを組むことになった。
その後、当時アメリカに住んでいたウーゴ&オスバルド・ファトルーソ兄弟の招待を受けて
アメリカ に渡り、
リンゴ・シールマンを加えて歴史的な
「OPA」を結成。
トム・スコット、フローラ・プリム、レイ・バレット、エルメート・パスコアル等と競演。

1980年、ルベンは
アルゼンチンで人気の絶頂を迎え、
『La Banda』『La Rada』 などのアルバムを録音、
「Rock en la Calle」「Blumana」「Candombe para Gardel」などの名曲を発表し、大ヒットさせた。
その後
メキシコにわたり3年ほどの間に、ミハレス、エウヘニア・レオン、タニア・リベルターといった
アメリカのマーケットも席巻していたスーパー・スターたちの作曲、編曲でも活躍するようになった。
この頃、UB40やスティングとも共演し録音もしたが、契約上の問題で発売できていない。

95年に
ウルグアイに戻ることになるが、直前に元Yesのジョン・アンダーソンともコラボしている。
その後も、南米はもちろん、欧米各地で忙しく演奏活動を続け世界的な名声を得ることになった….

世界中を巡って、忙しくしていた彼は65才の時に一度
引退を発表したことがある。
「今日も5日連続のショーを終えてきた。多いね。もう以前の様に声が出なくなって、
2時間半の公演を続ける力がなくなった。声をファルセットにしたり、トーンを下げたりしている。
私は「声でピルエットをした黒人」として記憶されたい。
私は15人から20人のメンバーの責任者だし、歌いながら続けていくのは困難だ。
多くのアーティストと同様、私もレコードを売り、
名を売リ続ける戦いに巻き込まれている….もういいだろ…」

しかし、世界がそれを認めなかった。

以前にも増して,仕事が舞い込み、
2010年
ベルリン ではラテンアメリカの独立運動から200年という記念のイベントが開かれ、
ルベン・ラダが特別に招待された。
彼のキャリアに焦点を当てたコンサートやディスカッションが3日間続いた。
この頃、カンドンベに特化した新しいショー
「ソロ・カンドンベ」も発表している。

その後もウルグアイ、アルゼンチンを中心に忙しく活動し続けているが、
2021年3月には、
苦労をかけたブラジル人である母へのオマージュとして、
ポルトガル語で歌ったサンバとカンドンベのアルバム『
As Noites do Rio』 をリリースし、
ブラジルでも大きな話題になっている。(下に続く)


Join us! 世界の豊かな音楽と文化を求めて!!!

今月のe-magazine LATINAには……聴く前に必読です!!!!

RUBEN RADA の軌跡を辿る
拡大版 Part 1 ー
文・斎藤充正

ルベンの音楽と話題

1980年頃、南米を訪れたポール・マッカートニー
ルベンの 「ノ・テ・バジャ・フランシスキート」を聴き、
当時世界に大きく注目され始めたアルゼンチンの

ロッカーと比較してRadaの真正性を強調した。


 音楽学者のコリアン・アハロニアンは、RUBEN RADAの音楽を、ペドロ・フェレイラのカンドンベ に、ホット・ブロワーズのジャズの革新性と、さらに特別なユーモアのセンスを加え、 カンドンベ、サンバ、ボサノヴァを組み合わせた新しい道を探るロックである、と定義した。

そして「彼の連続した個々の録音は、“マーケット・ミュージック” や小市民の消費者が粗野で下品だと考える表現の境界線上を移動する不思議な能力を示す重要な資料であると同時に、高度な洗練された繊細さ、リリシズム、想像力、そしてヴォーカルの名人芸を備えている」

と書いている。

 1980年頃、南米を訪れたポール・マッカートニーが、ルベンの「No te Vayas Fransisquito」を聴き、

当時世界でも急激に注目されるようになっていたアルゼンチンのロッカーたちより、ルベンの方が真正!と発言。

これは、当時の南米では大ニュースとして騒がれた。

国宝級の賞も総なめにし、海外からも限りない賞を受けてきたルベンだが、今でも、市場の親父さんたちや、掃除のおばさんたちからも愛されている。

ルベンは、音楽家としてはもちろん、TVのプロデューサー 俳優、演劇人としても活躍している。

さすが、軍政に刃向かい何度も投獄されたのに、民政を実現して大統領になっても給料を返上してしまう「世界一貧乏な大統領」を生んできた国の

もう一人の永遠の大スターだ。

Ruben Rada Portfolio

ルベン・ラダは、実にいろいろな表情を持つアーティスト。
世の中を見る目、その世の中をあざ笑う目、嘘を見抜く目、コミックに笑い飛ばす目…まさに多様!!!

Ruben Rada 2021 Japan Tour Schedule

ツアーは2021年11月25日から12月15日まで、全国15ヶ所で公演!
コロナの影響で、開演時間がイレギュラーのところもあります。
ぜひお確かめの上、ご来場下さい。

ルベン・ラダ東京公演

2021年12月6日(月) 18:30開演 東京・中野 中野サンプラザホール

2021年12月7日(火) 18:30開演 東京・中野 中野サンプラザホール

S席:¥5,200   A席:¥4,700 (税込み)

ラティーナでは、上記東京公演のS席チケットのみ取り扱っております。
お申込は下のボタンより↓

以下からもチケットをお求め頂けます。

MIN-ONインフォメーションセンター TEL:03(3226)9999 平日:10:00~16:00

チケットぴあ(セブン-イレブン) TEL:0570(02)9999 【Pコード:202-114】

ローソンチケット ・ローソン、ミニストップ店頭Loppi 【Lコード:70268(11月)】

本公演の主催はMIN-ONです。
全国15公演となりますが、次の項で全国公演の詳細を紹介しております。

※隣の座席を一席ずつ空けての販売となります。

※車椅子席をご希望の方は、MIN-ONインフォメーションセンター(TEL:03(3226)9999平日:10:00~16:00)にて
チケット販売致します。(付き添いの方は1名様までとなります)

※未就学児童のご入場は固くお断り致します。

※開場時間は、各公演1時間前を予定しております。

・本公演は、感染予防、および拡大防止対策を講じて開催致します。

・主催であるMIN-ONの取り組みについては、以下をご確認ください。
  https://www.min-on.or.jp/topics/info_1300.html

・舞台と客席の間は余裕をもたせた座席配置にしています。

・公演中止など、やむを得ない場合以外のチケットの払戻しは致しませんので、ご了承ください。

ルベン・ラダ全国公演日程

2021年11月25日(木)15:00開演  カルッツかわさきホール

2021年11月26日(金)15:00開演  鎌倉芸術館

2021年11月27日(土)15:00開演  相模女子大学グリーンホール

2021年11月29日(月)18:30開演  松山市民会館大ホール

2021年11月30日(火)18:30開演 岡山シンフォニーホール

2021年12月01日(水)18:30開演 広島文化学園HBGホール

2021年12月02日(木)18:30開演  宇部市渡辺翁記念会館

2021年12月03日(金)18:30開演  下関市民会館

2021年12月05日(日)14:00開演  日本特殊陶業市民会館フォレストホール

2021年12月06日(月)18:30開演 中野サンプラザホール

2021年12月07日(火)18:30開演 中野サンプラザホール

2021年12月09日(木)14:00開演 久喜総合文化会館

2021年12月11日(土)14:00開演 川口リリア・メインホール

2021年12月13日(月)14:00開演 サンシティ越谷市民ホール

2021年12月15日(水)18:30開演 島根県民会館

主催はMIN-ON。

東京・関東圏は

S席:¥5,200 A席:¥4,700

MIN-ONインフォメーションセンター TEL:03(3226)9999  平日:10:00~16:00

チケットぴあ(セブン-イレブン) TEL:0570(02)9999 【Pコード:202-114】

ローソンチケット ・ローソン、ミニストップ店頭Loppi 【Lコード:70268(11月)】

本公演の主催はMIN-ONです。日本全国15公演となりますが、次の項で全国公演の詳細を紹介しております。

※本公演は、隣の座席を一席ずつ空けての販売となります。

※車椅子席をご希望の方は、MIN-ONインフォメーションセンター(TEL:03(3226)9999平日:10:00~16:00)にて
 チケット販売致します。(付き添いの方は1名様までとなります)

※未就学児童のご入場は固くお断り致します。※開場時間は、各公演1時間前を予定しております。

・本公演は、感染予防、および拡大防止対策を講じて開催致します。

・当協会の取り組みについては、こちらをご確認ください。
 
https://www.min-on.or.jp/topics/info_1300.html

・舞台と客席の間は余裕をもたせた座席配置にしております。

・公演中止など、やむを得ない場合以外のチケットの払戻しは致しませんので、ご了承ください。


東京・関東圏以外は

MIN-ONインフォメーションセンター TEL:03(3226)9999平日:10:00~16:00にお問合せ下さい。




RUBEN RADA の仲間たち

ルベン・ラダの昔からの仲間、子供たち、さらにその仲間まで
ウルグアイを代表するミュージシャンたちが来日予定!

Percussion
(Tambor chico)

Bocha Martínez
ボチャ・マルティネス

José Luis Martinez

1962年8月3日にモンテビデオ生まれ。
子供の頃から、カンドンベの伝統を最も代表する地域、バリオ・スールでタンボールを叩いていました。彼は特にタンボール・チコを得意としています。歌手のマリアナ・インゴルドとオズワルド・ファトルーソのバンドでプロとしてのキャリアをスタートさせ、スペインなどでの公演後、バリオ・スールで撮影されたビデオクリップ「Llamando」に参加し、ルベン・ラダ、ウーゴ・ファトルーソなどの重要なゲストとして共演しました。

1999年から2003年にかけては、モンテビデオのカーニバルのコールパレードに正式に参加したコンパルサ「La dominguera」で監督を務めました。

2001年から現在まで、ルベン・ラダのバンドのメンバーとして、タンボール・チコを演奏しています。

Percussion
(Tambor repique)

Noé Nuñez
ノエ・ヌニェス

Noe Nuñez Martinez

1982年12月4日、モンテビデオ生まれ。
パーカッショニストであり、タンボールの製作者でもあります。8歳で、オスバルド・ファトルーソとマリアナ・インゴルドによる「El disco Kid」に出演。12歳の時に
ルベン・ラダ のレコーディングに初参加。それ以来、彼のレギュラーバンドに参加、タンボール・レピケを担当。

ルベン・ラダとは、世界を何度も巡演、彼の10枚以上の録音に参加しています。カーニバルで最重要なLlamadaのパレードにも20回以上参加。

ウーゴ・ファトルーソとは、グループ「レイ・タンボール」の一員として、4回の日本ツアーを行っています。

また、ホルヘ・ドレクスレル、チャーリー・ガルシア、オロドゥン等々、世界的アーティストと共演してきました。

Percussion
(Tambor Piano)

Lobo Nuñez
ロボ・ヌニェス

Fernando Nuñez Ocampo

1956年2月16日、モンテビデオ生まれ。
パーカッショニストであり、タンボールの著名な製作者でもあります。モンテビデオのバリオ・スールで生まれました。音楽一家の末裔で、有名なモデスト・オカンポの孫に当たります。

彼がタンボール製作者としてスタートしたのは1974年。1984年には、カルロス・ガルデル通り1017番地の自宅に「EI Power」という自分の工房を設立しました。

ルベン・ラダはもちろん、Ketama、フィト・パエス、ホルヘ・ドレクスレル などと演奏・録音を行っています。

60歳の誕生日である2016年2月16日に、ミック・ジャガー(南米ツアー中)から、カンドンベについて知りたいと訪問を受け、色々アドバイスしたのは生涯の誇りだそう。

Drums

Nelson Cedréz
ネルソン・セドレス

Nelson Daniel Cedréz Vidal

1961年10月31日生まれ。
10歳でドラムを始め、12歳でウルグアイのマルドナドにある音楽院に入学。

1982年、Tribulaciónというグループで、第1回モンテビデオ・ロック・アワードを受賞。1984年にスペインに渡り、プロのミュージシャンとして活動しながら、「RTVE」のドラマー、ペペ・サンチェスのレッスンを受講。

1990年、ポルトガルに渡り、ポルト・ジャズ学校でラテン・リズムを教えながら自身の音楽を磨きました。

ルベン・ラダと20年以上にわたって活動しています。彼と一緒にアルゼンチン、ブラジル、アメリカ、フランス、ドイツ、スウェーデン、ポルトガル、メキシコ、韓国、カタールなどの国々をツアーしてきました。

様々なアーティストとのコラボも含め、100以上のレコーディングに参加しています。

Keyboard

Manuel Contrera
マヌエル・コントレーラ

Manuel Contrera

1984年5月20日、パリ生まれ。 ピアニスト、ギタリスト、作曲家、アレンジャーで、ウルグアイを拠点に活動しています。

12歳でメアリー・カセレスにクラシック音楽を習い始め、A・マグノン、グスタボ・カセナベ(ウルグアイ)、モノ・フォンタナ(アルゼンチン)、フレッド・ハーシ、マーティン・ベジェラーノ、アンディ・ミルン(アメリカ)等のレッスンも受けました。

ブエノスアイレスの Escuela De Música Contemporánea(元Berklee)を卒業。また、ニューヨークのブルックリンにあるSIM (School of Improvisational Music)で、Tony Malaby、Ralpf Alessi、Tim Berneなどの講師から即興音楽を学びました。

国内外での受賞も数多いミュージシャンです。

Bass

Nacho Mateu
ナチョ・マテウ

José Ignacio Mateu Graside

1980年11月5日、モンテビデオ生まれ。
ベーシスト、作曲家、プロデューサー,音楽教師。

13歳でポポ・ロマーノに、モンテビデオとブエノスアイレスでアンドレス・イバルブル、ダニエル・マサなどの偉大な教師に師事。2005年にはアルゼンチンの Berklee International Networkでプロとしてのキャリアを積み、 2010年にはNYでトニー・マラビー(sax)から即興演奏を学び、2013年にはバルセロナでカルロス・ベナベント(Paco de Luciaのベース)からエレクトリックベースのレッスンを受けています。

幼少の頃から、ファトルーソ兄弟、ルベン・ラダらに学び、アルバムも2008年に「Lord」(08)から「MoM」(18)まで多数発表。

フリエタ・ラダの、グラミー賞ノミネートアルバム『Corazón Diamante』にも参加しています。

Guiter

Matías Rada
マティアス・ラダ

Matías Rada Jodara

1961年10月31日、ルベンの長男として生まれました。10歳でドラムを習い始め、12歳でウルグアイのマルドナドにある音楽院に入学。

1982年、Tribulaciónというグループで、第1回モンテビデオ・ロック・アワードを受賞。

1984年にスペインに渡り、プロのミュージシャンとして活動しながら、マドリッドのバンド「RTVE」のドラマーであるマエストロ、ペペ・サンチェスのレッスンを受けました。

1990年にはポルトガルに渡り、ポルト・ジャズ学校でラテン・リズムを教えながら勉強を続けました。

ドラマーのジョン・ライリー、デニス・チェンバース、パーカッショニストのジョバンニ・イダルゴなどのクリニックやワークショップに参加しています。

父であるルベン・ラダとは、20年以上にわたって共演しています。彼と一緒にアルゼンチン、ブラジル、アメリカ、フランス、ドイツ、スウェーデン、ポルトガル、メキシコ、韓国、カタールなど多くの国々でツアーを行なってきました。


Vocal

Julieta Rada
フリエタ・ラダ

Julieta Rada Jodara

アルゼンチン、ブエノスアイレスでルベンの次女として生まれました。1991年から1995年まではメキシコで育ち、1995年からはウルグアイに住んでいます。

父ルベン・ラダ、兄マティアス、姉ルシーラと,幼い頃から一緒に歌って育ちました。
16才になると、バーやカフェでも歌い、TV番組にも出演するようになりました。
ウルバノ・モラエスのグループで歌手としてのキャリアを始め、以来、フィト・パエス、ウーゴ・ファトルーソ、マルティン・ブスカリア、ジョス・ストーンといった著名人のゲストとして歌ってきました。

現在まで、『Afrozen』(2012年)、『Corazón Diamante』(2015年)、『Bosque』(2019年)の3枚のアルバムをリリースしています。

2015年のアルバム『Corazón Diamante』は、カンドンベ、ファンク、ロック、ポップ、ソウルがミックスされたもので、ラテン・グラミー賞の新人アーティスト部門と、グラフィティ賞の最優秀ポップ・アルバム部門と最優秀女性ソロ・アーティスト部門にノミネートされました。

2016年にはアルゼンチンのガルデル賞も受賞しています。

フリエタは、歌だけでなく,作曲、女優業も本格的に習得し、すでに映画にも2本出演している才能溢れるアーティストです。

下記の動画は、もう一人の娘のルシーラがまだ少女の頃録った動画「El Mundo Entero(全世界で)」。

JuiLeta Rada

ルベン自慢の娘
Julieta Radaも初来日!

フリエタは、CDデビュー後は、あまりRubenとの共演は少ないそうだが、今回の日本公演には特別に参加することになった。
ステージでは、彼女のヒット曲も聴けるに違いない!

ルベン・ラダのCD

今年、ルベンが苦しい時代を育ててくれた母へのオマージュとして録音した
話題の最新作『
AS NOITES DO RIO』が、 豪華日本語解説付きの輸入CDとして発売予定!
その他、彼の生涯の代表作を収めたアルバム2枚も入荷予定。
さらにフリエタの3枚のアルバムも発売中です。
(現在売切れのものは入荷次第販売します)

 私の母カルメンはブラジル人で、叔母とは双子だった。私たちはとても貧乏で、一部屋に6、7人で住んでいた。母と叔母は二人ともメイドで、仕事と言えば皿洗いから床磨き、もちろん病気に備える金はほとんどなかった…今では腫瘍か何か見つかっても手術をして、あと10年は生きられる時代。人々は長生きできるけれど、当時の黒人家族にはそういうものはなく、神様が望んだ時には逝くしかなかった。私はと言えば、子供の頃は2歳から4歳まで結核を患い、発育不良で、黒人で、無知。黒人で無知は最悪だった。だから、世界中を巡りながら、その言葉を覚え、知らないことは読んで学習するしかなかった.、この録音は、そんな苦労をかけた母に感謝を捧げたアルバムなんだ…

 カルリーニョス・ブラウンはパーカッショニストとして昔から知っていたが、2019年に彼が ”Los Tribalistas” でモンテビデオに来た時に個人的に会ったんだよ。アルバム最初に収録されている曲「Chão da Mangueira」(歌詞:ホ ナウド・バストス)をホナウドと考えている時に、カルリーニョスにレコーディングに参加してもらうことを思いつきすぐに電話したんだ。快く引き受けてくれた。彼の参加には非常に満足している。彼はバイーアから参加してくれて、カリスマ性と愛情をたっぷりと注いでくれたことにとても感謝している….

 今は、全部は思い出せないが、キーボードと音楽制作は、私と一緒にグスターボ・モンテムーロがやってくれた。ベースのナチョ・マテウとギターのマティアス・ラダ、彼はいつも一緒だ。ルシーラとフリエタの姉妹がバッキング・ヴォーカル、「A Menina do Chapéu Azul」では、Silvaにも参加してもらっている。タンボールは私とロボ・ヌニェス(タンボール・ピアノ)だった…

このメッセージは、電話口でルベンが語ってくれたものです。
近日中に、
e-magazine LATINA にて、インタビュー掲載予定!

AS NOITE DO RIO
Aerolíneas Candombe 

01 Chão da Mangueira

02 Dia da Morena

03 Nada Sem o Seu Olhar

04 A Menina do Chapéu Azul

05 Baião É Água Espraiada

06 Carolina

07 Sereia

08 Brasil

09 As Noites do Rio _   Aerolíneas Candombe

10 Travessia.wav

11 A Menina do Chapéu Azul ー Alt. Take


¥2,530 (税込み)




Arranjos/Arreglos de Ruben Rada e Gustavo Montemurro .

Gravado por/Grabado por Gustavo Montemurro, no estúdio/enelestudio LasManzanas, Montevideo, Uruguay.

Mixado por/Mezclado por Gustavo Montemurroe/y Ruben Rada,

com exceção de/a excepción de:

“Dia da Morena”, mixada por/mezclada por Rodolfo Simor , Vitória (ES);

“A Menina do Chapéu Azul(feat. Silva)”, mixada por/mezclada por Duda Mello , Rio de Janeiro (RJ).

Masterizado por Ricardo Garcia(Magic Master), Rio de Janeiro (RJ).

 Capa/Portada por Beto Martins Design(Lisboa, Portugal).

Foto de Carmen María Silva e/y Ruben Rada: arquivo pessoal/archivopersonal de Ruben Rada.

 Direção artística/Dirección artística: LeonelPereda e Ronaldo Bastos

 Agradecimentos / Agradecimientos:Tamy, Francisco Vervloet, Carlinhos Brown, Flavio (Candyall), Isa Lorena, Silva, Lucas Silva, PatriciaJodara, LucilaRada, Julieta Rada, Matias Rada, (pessoal da Mangione e da SonyATV), João Bernardo, Marcelão de Sá, Rodolfo Simor…

現在、予約受付中!

Join us! e-magazine LATINA
定期購読会員募集中!

ルベン・ラダの詳細な足跡

世界中を忙しく飛び回ってきたルベン・ラダは、時代時代に大きな影響を与えてきた。
主にスペイン語Wikiの情報だが、いくつか年度など不正確な物もあるが、
膨大な音資料を聴く際にお役立てください。
なお、年代も含めて完璧な
斎藤充正氏による ラダの分析記事が e-magazine LATINAで始まっている。
これはウルグアイ人もびっくりのもの凄い記事。是非e-magazineLATINAに!!!


Omar Ruben Rada Silva(モンテビデオ、1943年7月16日)は、ウルグアイのミュージシャン、作曲家、パーカッショニスト、歌手、俳優、テレビ司会者であり、「Negro Rada」として知られている。

彼が音楽の世界に足を踏み入れたのは、10歳のとき、ブラック&ルボロのグループ「Morenada」のメンバーとしてでした。彼の最初の芸名はサパティートで、その年齢ですでにヨーロッパ・サイズの43(26.5cm)の靴を履いていたからだ。15歳から16歳にかけて、「ラ・ヌエバ・ミロンガ」というムルガに出演した。当時、彼はウルグアイのカンドンベの重要な作曲家であるペドロ・フェレイラのオルケスタ・トロピカル・カンドンベ・クバナカンで歌っており、ラダはこのペドロがこのジャンルに重要な影響を与えた人物であると認識していた。17歳のとき、 リッチー・シルバーという芸名でバンド「Los Hot Blowers」のフロントマンとしてデビュー。

ホットブロワーズ

1958年から1962年にかけて、ピアニストのパコ・マニョーサが結成したジャズグループ「The Hot Blowers」というモンテビデオ・ホットクラブのアンサンブルにボーカルとして参加した。フェデリコ・ガルシア・ビジル、ダニエル・”バチチャ”・レンシナ、ウーゴとオスバルド・ファトルーソ兄弟、エンリケ・”ペロ”・デ・ボニ、リンゴ・シールマン、デートリッヒ・オルトマン、モリス・パルド、トマス・”チョチョ”・パオリーニ、ギジェルモ・ファカル、モイセス・ルーソ、ラモン・”ベベ”・アルフォンソ、コメディアンのカチョ・デ・ラ・クルスなどの著名なミュージシャンがこのグループのメンバーだった。

このバンドは、3枚のEPアルバムをリリースし、チリ国内を広くツアーするなど、地域的に認知されていた。

頻繁に行われるライブやテレビ番組で、ラダはその音楽的才能だけでなく、ユーモラスで冗談好きな一面で人々を魅了し、その頃の姿が今でも彼に結びついている。

エル・キント El Kinto

 1965年にはエル・キントに参加し、プロの音楽家としてのスタートを切った。このバンドは、最初は英語でダンスミュージックを演奏していましたが、次第にスタイルや言語を変えて自分たちの曲を手がけるようになりました。エル・キントは、カンドンベを電気楽器、トゥンバドル、ドラムスで演奏し、さらにスペイン語で歌う曲を作った先駆者として知られています。彼らが定義したカンドンベ・ビートは、サイケデリック・ロック、カンドンベ、ブラジル音楽、その他様々なスタイルをミックスしたものでした。彼らの特徴は、革新的な精神と優れた音楽的アレンジです。ボーカルはRada、Eduardo Mateo、Urbano Moraes、Walter Cambónの4人。エル・キントによる録音で、アルバム 『Musicasión 4 ½』、『Circa 1968』、CD『Clásico』をリリース。

トーテム Totem

エル・キントの後、彼はトーテムというグループを結成した。トーテムは、3枚のLPをリリースしただけで、1970年から1973年までの短い活動だったが、当時から現在に至るまで、ウルグアイのロック音楽において最も印象的なバンドのひとつとなった。ロックンロール、ラテン音楽、カンドンベなどの要素が融合し、ルーベン・ラダの独特の声が加わったことで、このグループはウルグアイの若い音楽界の頂点に立つことになった。Tótemと一緒に、グループの最初の2枚のアルバムをレコーディングし、 「Dedos」(Eduardo Usetaとの共作)、「Biafra」、「Heloísa」、「Negro」などの曲を作曲した。

オーパ Opa

76年、マイルストーン・レコードにファースト・アルバム『Goldenwings』を録音した。ギターのDavid Amaro、フルートとパーカッションのHermeto Pascoal、パーカッションのAirto Moreiraが参加しています。 77年には、ウーゴ・ファットルーソ、オスバルド・ファットルーソ兄弟、リンゴ・シールマンとともに、アメリカで制作されたオーパの2番目のLP「Magic Timeマジック・タイム」のレコーディングに参加した。パーカッションにアイルト、ボーカルにフローラ・プリム、ギタリストのバリー・フィナーティが加わった。 このアルバムは、当時流行していたジャズ・ロックの影響を強く受けた音楽にカンドンベを融合させたものだった。このアルバムは、Radaを除いたバンドの前作「Goldenwings」の路線を踏襲しており、専門の評論家からも非常に高い評価を得た。「Magic TIme」には、後にウルグアイ音楽を代表する曲となる、ラダとウーゴ・ファトルーソによる「Montevideo 」が収録されている。また、オーパは、1973年アイルト・モレイラに認められて彼のアルバム「フィンガーズ 」に参加していたが、そのタイトル曲はラダの「Dedos (Fingers」でLPの英語タイトルは「Fingers (Dedos)」だった。つまり、ラダがオパに参加したのはアイルトがプロデュースし、ウーゴがディレクションした「マジックタイム」が最初だった。 1981年、すでにアルゼンチンにいたラダは、アルバム「 A Los Shakers」に「オトロシェイカーズ」の名で登場したバンド「オパ」とレコーディングを行った。 同年、オーパはウルグアイで初めて、歴史的なコンサートを2回行いました。 1987年10月17日、モンテビデオのTeatro de Veranoで再会し、コンサートを行った。 このコンサートから、1988年にアルバム「 Opa en vivo」がリリースされた。1980年代のラジオでは、『マジック・タイム』の「Dedo」曲が流れると、オーパの処女作と区別するために、「Opa con Radaオーパ・コン・ラダ」という表現がよく聞かれた。そして、2005年3月、テアトロ・ソリスでの公演が最後となった。

「ウルグアイとアルゼンチンでは

1969年、リオデジャネイロで開催された第4回世界歌謡祭に、ラダはウルグアイ代表として “Si te vas “という曲で参加したが、最終的にはジョアン・マヌエル・セラットがアウグスト・アルゲロの “Penélope(邦題=エーゲ海の真珠) “で優勝した。

同年、主に「Las manzanas」の成功によりRadaの人気が高まったため、ソロとしての最初のアルバム 「Rada」(「Las manzanas」として知られ、1983年にアルゼンチンで再発売され、1998年にはその名前でCD化されている)をレコーディングした。

「トーテム」の後、70年代半ばには、ブエノスアイレスで「Ruben Rada y Conjunto S.O.S.」、モンテビデオで 「Radeces」という2枚のアルバムを録音して高い評価を得たほか、カメラータ・プンタ・デル・エステのアルバム「Café Concert Vol.2」にゲストミュージシャンとして参加している。この頃の曲には、 「Ayer te vi」、「Upa nega」、「Chinga Chilinga」、「Malísimo」、「Pájaro africano」などがある。

音楽学者のコリアン・アハロニアンは、ウルグアイでトーテムが成功したにもかかわらず、ラダのソロの提案はその最初の段階で失敗したと警告している。「クリエイターとしても歌手としても優れていたにもかかわらず、黒人社会が彼の提案の一部を取り入れたにもかかわらず、白人社会が彼を受け入れなかったからだ」と。そして、「ウルグアイの微妙な人種差別によって、彼は同情的で面白いキャラクターとして隔離され、一部の消費者に賞賛される人物に限定され、1990年代になるまで真に大衆的に到達することができなかった」と指摘している。

アルゼンチンの場合

1980年、ラダは定住していたアルゼンチンで人気の時期を迎えた。この時期には、アルバム「La Banda」、「La Rada」、「En familia」、「La cosa se pone negra (live)」、「Adar Nebur」、「La yapla mata」 などが発売された。その間、「Rock de la calle」、「Blumana」、「Candombe para Gardel」などの名曲を録音した。アルゼンチンでは、1982年にアンサンブル 「Buenos Aires Jazz Fusión」のメンバーとして、アルバム「Volumen 1」のレコーディングにも参加している。また、並行したプロジェクトとして、1983年から6年間、ジャズグループ「Explossion」に参加していた。

1984年には、キューバで開催された「バラデロ84」に参加。

1986年、モンテビデオで初演されたカルロス・マギー作・演出、ウーゴ・ファトルーソ作曲の同名の劇で、「黒人のクリスピン・アモーレス・アルティガス」を演じた。劇中の記録が公開された。80年代後半の1991年までは、エドゥアルド・マテオ、ウーゴ・ファトルーソ、リト・ネビアとのアルバムや、ソロアルバムを録音していた。Botija de mi país」、「Terapia de murga」、「Candombe para Figari」 などの曲が目立つ。

メキシコにて

90年代初頭、経済的な制約からメキシコに移ったが、業界は他のタイプのアーティストに興味を持っていた。メキシコではUB40やスティングの前座を務め、アルバム「Rada Factory」をレコーディングしましたが、会社の財政的な問題でリリースされなかった(アルバムはインターネットで見ることができる)。ラダは定期的にウルグアイに行っていたので、1993年にパラシオ・ペニャロールで 「Concierto por la vida」(1994年発売)を録音。

また、1994年には、元Yesのヴォーカリストであるジョン・アンダーソンと、アルバム「Deseo」に収録されている「Seasons」でコラボレーションしている。

ウルグアイに戻る前(1995年7月にウルグアイに戻ってきた)、彼はアメリカのウーゴ・ファトルーソを訪ね、ニール・ワイスと出会い、アルバム「Montevideo」を制作したが、このアルバムは1996年初めに国際的にリリースされた。このアルバムは、1996年9月にモンテビデオのテアトロ・ソリスで2回にわたって発表された。ギターのハイラム・ブロック、ベースのバキティ・クマロ、キーボードのウーゴ・ファトルーソなど、アルバムのレコーディングに参加したミュージシャンが参加した。1999年、ニール・ワイスは最初の「Montevideo」に続く「Montevideo dos」をリリース。

ウルグアイとアルゼンチンに戻る

「Montevideo』のリリースに先立ち、すでにウルグアイにいたラダは、若いミュージシャンたちとアルバム『Botijas Band』(同年リリース)の制作を開始しており、ウルバノ・モラエスやラダ自身も参加していた。また、モンテビデオ市庁舎のエスプラネードで行われた野外コンサートも記憶に新しい。クラウディオ・タッデイとレコーディングしたデビューアルバムには、ストレッチの 「Why Did You Do It」のカバーと「Estoy contento, nena」の2曲が収録され、ラジオで重要な放送をしていた。

1997年には「Miscelánea negra」、1998年には「Black」を録音した。2枚のアルバムは、ウルグアイでプラチナ・ディスクを獲得しました。Ketamaと一緒に録音したセカンドアルバムに収録されている 「Loco de amor」は、Radaの商業的可能性を広げるヒット曲となった。ブラック以降、ラダのアルバムはポリグラム、ユニバーサルミュージックグループ、EMI、ソニーミュージックなどのレーベルから配信されるようになった。

次のアルバムRadaの制作のために、Cachorro Lópezを呼んだ。意図したのは、成功を定着させること。「Quién va a cantar」(2000年)は、 「Cha-cha, muchacha」「Muriendo de plena」などのヒット曲があり、ウルグアイでは4つのプラチナ賞、アルゼンチンではDisco de Oro賞を受賞。 彼の曲のいくつかは、何年もラジオのハイローテーションになっていた。同じくカチョーロ・ロペスがプロデュースした 『Alegre caballero』(2002年)は、『Quién va a cantar』に続く作品で、ウルグアイではプラチナ賞を受賞した。

1999年以降は、子供向けのショーを行うようになり、子供向けのアルバムシリーズをリリースし、その中で「ルーベンラー」というキャラクターが生まれた。

2004年には、同名のツアーを記録したライブアルバム「Candombe Jazz Tour」を録音し、70年代後半から80年代前半のソロ活動の音楽に戻り、最近の曲も加えている。

2006年には、そのペンネームでアルバム「Richie Silver」をリリースした。初期のキャリアからの発明を取り上げ、この分身を使って、シンガーとしての初期に演奏したロックにインスパイアされたアルバムをレコーディングしたのである。リッチー・シルバーは、2007年ガルデル賞の最優秀新人ロックアーティスト賞を受賞しましたが、これについてラダは、アルゼンチン人が「冗談を理解してくれた」と断言している。「夜に咲く花」は、このアルバムのアルバムカットとなった曲である。

2007年には、ハビエル・マロセッティと一緒にライブアルバム「Varsovia at La Trastienda in Buenos Aires」を録音。

2008年には「Bailongo」をリリース。このCDはウルグアイではAbitabのコレクションネットワークを通じてのみ販売された。

2008年10月、Radaは2009年にステージを離れることを発表した。ブエノスアイレスの新聞「Clarín」のインタビューで彼はこう答えている。

「私は65歳で、5回連続のショーから来ています。多いですね。以前のように音がはっきりしなくなり、2時間半のライブを続ける力がなくなり、ファルセットになったり、トーンを下げたりしています。私は、「声でピルエットをした黒人」として記憶されたいのです。それに、私は15人、20人の責任者ですから、歌いながら運ぶのは大変です。多くのアーティストがそうであるように、私もレコードを売り、自分の名を売るための戦いに巻き込まれています。もういいよ。」

2009年12月には、ラダが自身のファンであるウルグアイやアルゼンチンの作家の作品をカバーしたアルバム「Fan: Pa’los amigos」をリリースした。このアルバムは、彼が自分のキャリアの原点であるラダの通訳に戻るトリビュートアルバムで、モンテビデオのテアトロ・デ・ベラーノでのライブで発表された。

2010年7月には、カンドンベに特化した新番組「Solo Candombe」を発表。この作品は、彼の長いキャリアのほとんどを網羅したもので、モンテビデオ市の歴史的なエスパシオ・ガンビアで初演され、その後、ウルグアイのSODREやラプラタのテアトロ・アルヘンティーノなど、両岸の重要な劇場で上演された。週刊誌「ブスケダ」は、このショーを次のように紹介している。

「Solo Candombe」は、彼の偉大なカンドンベ作品の最高傑作を紹介するショーで、「Hot Blowers」、「El Kinto」、「Totem」、「Opa」で歌った男、カーニバル歌手であり、ウルグアイのロックとカンドンベ・ビートの先駆者であり、カルト的なアーティストであり、忘却の淵に追放され、需要に応じたポップソングの作者であり、90年代に復活し、「Montevideo」のような素晴らしいアルバムで批評家や要求の高い聴衆の喝采を得た男の姿を観客に見せてくれる。90年代に復活し、『Montevideo』のような素晴らしいアルバムで批評家や要求の多い大衆の喝采を浴びた男、チャチャチャの音に合わせてラテンポップスターになった男、子供向け音楽に革命を起こしたキャラクター、テレビ司会者でありコメディアン、曲の合間にスタンドアップ演技をするストーリーテラー(決して立ち上がらないが)。そのすべてが、48年もの間、その声で私たちを魅了し続けてきたこの巨大なアーティストに凝縮されている。ハビエル・アルフォンソ 〜週刊ブスケダ

12月10日、国際人権デーを記念して国連が企画したコンサートで、Verano劇場にて2010年に別れを告げた。

2011年10月には、アルバム「Confidence: Rada Instrumental」をリリースし、ガルデル賞(最優秀インストゥルメンタル&フュージョン・アルバム)、グラフィティ賞(最優秀インストゥルメンタル・アルバム)を受賞するなど、高い評価を得た。

グラミー賞

2011年11月には、ラテン・レコーディング・アカデミーが主催するグラミー賞(Musical Excellence)を受賞。この受賞を記念して、ラダ自身が選曲した50曲のトリプルコンピレーションRada, El Álbum Negro: 50 masterpieces (Disco de Oro)が発売された。

2013年7月にはアルバム「Amoroso pop」を発表し、同年10月にはメキシコのグアナファト市で開催された第41回国際セルバンティーノ・フェスティバルのオープニングを務めた。その後、2014年にアルバム『Tango, milonga y candombe』 (Disco de Oro)とそのライブ版(2016年)、『Allegro』(2015年)、2011年のインストゥルメンタル・アルバム『Confidence』の後編だが、今回はいくつかの曲が歌われている 『Confidence 2: La Película』(2017年)、2020年の『Negro Rock』と続く。これらのアルバムは、ラダがキャリアの中で取り組んできた様々な音楽スタイルやジャンルの一つに焦点を当てている。

2016年には、ダニエル・”ロビト”・ラガルド、リカルド・ノレ、ネルソン・セドレの3人が「ラダのオールド・ボーイズ」として、ラダの楽曲をアコースティック・ジャズ・トリオ形式でカバーしたアルバム『Homenaje a Rada』 をレコーディング。このアルバムは、2017年のGraffiti Awardでベスト・ジャズ・アルバムを受賞した。ピアニスト兼アレンジャーのリカルド・ノレは1982年から1991年までラダのバンドで非常に重要な役割を果たし、ベーシストのダニエル・”ロビト”・ラガルドはラダのパートナーとしてトーテムと、トーテムの後に続くバンドでありながらアルバムをレコーディングしなかったグラ・マタリに参加し、ネルソン・セドレツは1995年からラダのドラマーを務めている。Radaは 「Negro」という曲でゲストとして歌っている。

2019年、ラダはショー「Parte de la historia」を発表し、彼の最初のバンドであるEl Kinto、Totem、Opaの曲や、ソロキャリアのさまざまな段階での名曲を再演した。彼に同行したバンドは、彼の子供であるマティアス(ギター)、フリエタ、ルシーラ(バックボーカル)、そしてグスタボ・モンテムーロ(キーボード)、ナチョ・マテウ(ベース)、タト・ボロニーニ(ドラム)で構成されていた。6月18日にはモンテビデオのソリス劇場で、9月28日にはブエノスアイレスのオペラ劇場で公演を行いました。ショーの様子は撮影され、その一部の記録は2020年中にアーティストの公式Youtubeチャンネルで公開された。 Parte de la historia』というライブアルバムも発売された。

母へのオマージュ

2021年3月26日には、ブラジル人の母へのオマージュとして、ポルトガル語で歌われたサンバとカンドンベのアルバム「As noites do Rio / Aerolíneas Candombe」をリリース。Ronaldo Bastosが歌詞を書き、Carlinhos Brownが出演している 「Chão da Mangueira」のビデオが作られ、ブラジルでも評判になっている。

音楽スタイル

音楽学者のコリアン・アハロニアンは、RUBEN RADAの音楽を、ペドロ・フェレイラのカンドンベに、ホット・ブロワーズのジャズの革新性とジョージ・ルースの提案を加え、さらに特別なユーモアのセンスを加え、カンドンベ、サンバ、ボサノバを組み合わせた新しい道を探るロックであると定義した。そして、「彼の連続した個々のフォノグラムは、”マーケット・ミュージック “や小市民の消費者が粗野で下品だと考える表現の境界線上を移動する不思議な能力を示す重要な資料であると同時に、高度な洗練された繊細さ、リリシズム、想像力、そしてヴォーカルの名人芸を備えている」と書いている。

1980年代初頭、ポール・マッカートニーは、アルバム「La Rada」に収録されている「No te vayas Francisquito」という曲を聴き、アルゼンチンのロッカーと比較してRadaの真正性を強調した。

テレビ、映画、ラジオ

コミカルな俳優として、コメディ番組「Telecataplúm」や「El Show del mediodía」のキャストの一人として活躍しました。シットコム「Gasoleros」(1998年)、「La oveja Negra」(2007年)、「Porque te quiero así」(2010年)のキャストの一人であり、ウルグアイのテレビ番組「El teléfono」(2000年)、「Décadas」(2012年)、「Es tu sentido」(2017年)のホストを務めました。ラジオでは、X FMのウルグアイの番組「Radar」でCésar Martínezと共にホストを務め、Metrópils FMの「Viste cómo es」ではホストを務めました。ラダは以下の作品に参加しました。La vuelta de Martín Fierro』(1974年)、『Buenos Aires Rock』(1983年)、『Soy paciente』(1986年)(未発表)、『24 horas (Algo está por explotar)』(1997年)、『El chevrolé』(1999年)、『Los Increíbles』(2004年、フロゾノのアルゼンチン人声)、『Por un puñado de pelos』(2014年)、『Cara Sucia, con la magia de la naturaleza』(2019年)。ザ・ローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画『Olé Olé Olé!:A Trip Across Latin America』(2016年)にも出演している。

※とても良くできているスペイン語版wikipediaを参照・編集しました。