斎藤充正氏によるRUBEN RADAの決定的記事が開始!
アストル・ピアソラの世界的権威である斎藤充正氏は、ルベン・ラダの大ファンとは聞いていたが、ラダについての記事も凄い。本当はスペースをたくさん割ければ限りなく書いて頂けるのだろうが、今回から何回かに分けて掲載する。ウルグアイ、アルゼンチンもびっくりの詳しい、正しい情報がびっしりです。
是非ご一読下さい!!!
RUBEN RADAという音楽家
世界中に南アメリカ、ウルグアイのポピュラー音楽を紹介、形を変えながらその根本的な魅力を植え付けてきたスーパー・レジェンド、ルベン・ラダが、とうとう日本にやってきます。コロナ禍で難しい時期でしたが、日本公演は絶対にやる!とすべての問題を吹き飛ばしてくれました!
一般的な短いProfileと詳しいBiographyと2種類掲載しています。
強力な来日メンバー
日本には最強メンバーで臨むと宣言していた通り、人気ギタリストの息子マティアスを含む7人の最強ミュージシャンたちに、娘のグラミー・ノミネート歌手フリエタを加えて….ホンモノのカンドンベ・ビート満載のステージ!
モンテビデオの古いカンドンベのタンボレスの巨匠に、現代のサウンド・クリエーターたち、全員がルベン・ファミリーで、一緒に活動する仲間です。
日本公演日程
11月25日から12月15日まで、全国15回公演。まだコロナが心配な時期ですが、来日メンバーは全員ワクチン3回を接種し、万全の体制での来日予定です。マスク、手洗いなどの感染予防対策にご協力ください。
感染に気をつけながら、大いに盛り上がりましょう!
ルベン・ラダの世界的活躍
南アメリカの小さな国ウルグアイの
カンドンベなど豊かなポピュラー音楽を
ロック、サンバ…あらゆる音楽に融合して
世界の表舞台に引きあげた…

南アメリカの小さな国、ウルグアイの、カンドンベなどの豊かなポピュラー音楽を世界中に運び、種を蒔き、
世界の音楽家たちに愛されてきたスーパー・レジェンド、ルベン・ラダ
がいよいよ日本にやってくる。
1965年、ルベン・ラダは
ロックとラテンアメリカの音楽を融合した
「エル・キント(El Kinto)
」というグループを結成。
彼のカンドンベ・ビートは、ロック、カンドンベ、ブラジル音楽、その他色々なスタイルをミックスしたもの。
これが、
ルベン・ラダの音楽人生の始まりだった。
このグループの台頭から、南米でも世界でも
ラテンの音楽とロックの混合バンドがたくさん生まれるようになった…
ブラジルでも若者たちの大きな音楽ムーブメントが起こされていた1969年、
ルベンは、リオで開催されたポピュラー音楽フェスティバルに参加して大評判となり、1年後に
「トーテム(Totem)」というバンドを組むことになった。
その後、当時アメリカに住んでいたウーゴ&オスバルド・ファトルーソ兄弟の招待を受けてアメリカ
に渡り、
リンゴ・シールマンを加えて歴史的な「OPA」を結成。
トム・スコット、フローラ・プリム、レイ・バレット、エルメート・パスコアル等と競演。
1980年、ルベンは
アルゼンチンで人気の絶頂を迎え、
『La Banda』『La Rada』
などのアルバムを録音、
「Rock en la Calle」「Blumana」「Candombe para Gardel」などの名曲を発表し、大ヒットさせた。
その後
メキシコにわたり3年ほどの間に、ミハレス、エウヘニア・レオン、タニア・リベルターといった
アメリカのマーケットも席巻していたスーパー・スターたちの作曲、編曲でも活躍するようになった。
この頃、UB40やスティングとも共演し録音もしたが、契約上の問題で発売できていない。
95年に
ウルグアイに戻ることになるが、直前に元Yesのジョン・アンダーソンともコラボしている。
その後も、南米はもちろん、欧米各地で忙しく演奏活動を続け世界的な名声を得ることになった….
世界中を巡って、忙しくしていた彼は65才の時に一度
引退を発表したことがある。
「今日も5日連続のショーを終えてきた。多いね。もう以前の様に声が出なくなって、
2時間半の公演を続ける力がなくなった。声をファルセットにしたり、トーンを下げたりしている。
私は「声でピルエットをした黒人」として記憶されたい。
私は15人から20人のメンバーの責任者だし、歌いながら続けていくのは困難だ。
多くのアーティストと同様、私もレコードを売り、
名を売リ続ける戦いに巻き込まれている….もういいだろ…」
しかし、世界がそれを認めなかった。
以前にも増して,仕事が舞い込み、
2010年ベルリン
ではラテンアメリカの独立運動から200年という記念のイベントが開かれ、
ルベン・ラダが特別に招待された。
彼のキャリアに焦点を当てたコンサートやディスカッションが3日間続いた。
この頃、カンドンベに特化した新しいショー「ソロ・カンドンベ」も発表している。
その後もウルグアイ、アルゼンチンを中心に忙しく活動し続けているが、
2021年3月には、
苦労をかけたブラジル人である母へのオマージュとして、
ポルトガル語で歌ったサンバとカンドンベのアルバム『As Noites do Rio』
をリリースし、
ブラジルでも大きな話題になっている。(下に続く)
Join us! 世界の豊かな音楽と文化を求めて!!!
今月のe-magazine LATINAには……聴く前に必読です!!!!
RUBEN RADA の軌跡を辿る
拡大版 Part 1 ー文・斎藤充正
ルベンの音楽と話題
1980年頃、南米を訪れたポール・マッカートニーが
ルベンの
「ノ・テ・バジャ・フランシスキート」を聴き、
当時世界に大きく注目され始めたアルゼンチンの
ロッカーと比較してRadaの真正性を強調した。




音楽学者のコリアン・アハロニアンは、RUBEN RADAの音楽を、ペドロ・フェレイラのカンドンベ に、ホット・ブロワーズのジャズの革新性と、さらに特別なユーモアのセンスを加え、 カンドンベ、サンバ、ボサノヴァを組み合わせた新しい道を探るロックである、と定義した。
そして「彼の連続した個々の録音は、“マーケット・ミュージック” や小市民の消費者が粗野で下品だと考える表現の境界線上を移動する不思議な能力を示す重要な資料であると同時に、高度な洗練された繊細さ、リリシズム、想像力、そしてヴォーカルの名人芸を備えている」
と書いている。
1980年頃、南米を訪れたポール・マッカートニーが、ルベンの「No te Vayas Fransisquito」を聴き、
当時世界でも急激に注目されるようになっていたアルゼンチンのロッカーたちより、ルベンの方が真正!と発言。
これは、当時の南米では大ニュースとして騒がれた。
国宝級の賞も総なめにし、海外からも限りない賞を受けてきたルベンだが、今でも、市場の親父さんたちや、掃除のおばさんたちからも愛されている。
ルベンは、音楽家としてはもちろん、TVのプロデューサー 、俳優、演劇人としても活躍している。
さすが、軍政に刃向かい何度も投獄されたのに、民政を実現して大統領になっても給料を返上してしまう「世界一貧乏な大統領」を生んできた国の
もう一人の永遠の大スターだ。
Ruben Rada Portfolio
ルベン・ラダは、実にいろいろな表情を持つアーティスト。
世の中を見る目、その世の中をあざ笑う目、嘘を見抜く目、コミックに笑い飛ばす目…まさに多様!!!
Ruben Rada 2021 Japan Tour Schedule
ツアーは2021年11月25日から12月15日まで、全国15ヶ所で公演!
コロナの影響で、開演時間がイレギュラーのところもあります。
ぜひお確かめの上、ご来場下さい。
ルベン・ラダ東京公演
2021年12月6日(月) 18:30開演 東京・中野 中野サンプラザホール
2021年12月7日(火) 18:30開演 東京・中野 中野サンプラザホール
S席:¥5,200 A席:¥4,700 (税込み)
ラティーナでは、上記東京公演のS席チケットのみ取り扱っております。
お申込は下のボタンより↓
以下からもチケットをお求め頂けます。
MIN-ONインフォメーションセンター TEL:03(3226)9999 平日:10:00~16:00
チケットぴあ(セブン-イレブン) TEL:0570(02)9999 【Pコード:202-114】
ローソンチケット ・ローソン、ミニストップ店頭Loppi 【Lコード:70268(11月)】
本公演の主催はMIN-ONです。
全国15公演となりますが、次の項で全国公演の詳細を紹介しております。
※隣の座席を一席ずつ空けての販売となります。
※車椅子席をご希望の方は、MIN-ONインフォメーションセンター(TEL:03(3226)9999平日:10:00~16:00)にて
チケット販売致します。(付き添いの方は1名様までとなります)
※未就学児童のご入場は固くお断り致します。
※開場時間は、各公演1時間前を予定しております。
・本公演は、感染予防、および拡大防止対策を講じて開催致します。
・主催であるMIN-ONの取り組みについては、以下をご確認ください。
https://www.min-on.or.jp/topics/info_1300.html
・舞台と客席の間は余裕をもたせた座席配置にしています。
・公演中止など、やむを得ない場合以外のチケットの払戻しは致しませんので、ご了承ください。

RUBEN RADA の仲間たち
ルベン・ラダの昔からの仲間、子供たち、さらにその仲間まで
ウルグアイを代表するミュージシャンたちが来日予定!
Percussion
(Tambor chico)
Bocha Martínez
ボチャ・マルティネス
José Luis Martinez

1962年8月3日にモンテビデオ生まれ。
子供の頃から、カンドンベの伝統を最も代表する地域、バリオ・スールでタンボールを叩いていました。彼は特にタンボール・チコを得意としています。歌手のマリアナ・インゴルドとオズワルド・ファトルーソのバンドでプロとしてのキャリアをスタートさせ、スペインなどでの公演後、バリオ・スールで撮影されたビデオクリップ「Llamando」に参加し、ルベン・ラダ、ウーゴ・ファトルーソなどの重要なゲストとして共演しました。
1999年から2003年にかけては、モンテビデオのカーニバルのコールパレードに正式に参加したコンパルサ「La dominguera」で監督を務めました。
2001年から現在まで、ルベン・ラダのバンドのメンバーとして、タンボール・チコを演奏しています。
Percussion
(Tambor repique)
Noé Nuñez
ノエ・ヌニェス
Noe Nuñez Martinez

1982年12月4日、モンテビデオ生まれ。
パーカッショニストであり、タンボールの製作者でもあります。8歳で、オスバルド・ファトルーソとマリアナ・インゴルドによる「El disco Kid」に出演。12歳の時にルベン・ラダ
のレコーディングに初参加。それ以来、彼のレギュラーバンドに参加、タンボール・レピケを担当。
ルベン・ラダとは、世界を何度も巡演、彼の10枚以上の録音に参加しています。カーニバルで最重要なLlamadaのパレードにも20回以上参加。
ウーゴ・ファトルーソとは、グループ「レイ・タンボール」の一員として、4回の日本ツアーを行っています。
また、ホルヘ・ドレクスレル、チャーリー・ガルシア、オロドゥン等々、世界的アーティストと共演してきました。
Percussion
(Tambor Piano)
Lobo Nuñez
ロボ・ヌニェス
Fernando Nuñez Ocampo

1956年2月16日、モンテビデオ生まれ。
パーカッショニストであり、タンボールの著名な製作者でもあります。モンテビデオのバリオ・スールで生まれました。音楽一家の末裔で、有名なモデスト・オカンポの孫に当たります。
彼がタンボール製作者としてスタートしたのは1974年。1984年には、カルロス・ガルデル通り1017番地の自宅に「EI Power」という自分の工房を設立しました。
ルベン・ラダはもちろん、Ketama、フィト・パエス、ホルヘ・ドレクスレル などと演奏・録音を行っています。
60歳の誕生日である2016年2月16日に、ミック・ジャガー(南米ツアー中)から、カンドンベについて知りたいと訪問を受け、色々アドバイスしたのは生涯の誇りだそう。
Drums
Nelson Cedréz
ネルソン・セドレス
Nelson Daniel Cedréz Vidal

1961年10月31日生まれ。
10歳でドラムを始め、12歳でウルグアイのマルドナドにある音楽院に入学。
1982年、Tribulaciónというグループで、第1回モンテビデオ・ロック・アワードを受賞。1984年にスペインに渡り、プロのミュージシャンとして活動しながら、「RTVE」のドラマー、ペペ・サンチェスのレッスンを受講。
1990年、ポルトガルに渡り、ポルト・ジャズ学校でラテン・リズムを教えながら自身の音楽を磨きました。
ルベン・ラダと20年以上にわたって活動しています。彼と一緒にアルゼンチン、ブラジル、アメリカ、フランス、ドイツ、スウェーデン、ポルトガル、メキシコ、韓国、カタールなどの国々をツアーしてきました。
様々なアーティストとのコラボも含め、100以上のレコーディングに参加しています。
Keyboard
Manuel Contrera
マヌエル・コントレーラ
Manuel Contrera

1984年5月20日、パリ生まれ。 ピアニスト、ギタリスト、作曲家、アレンジャーで、ウルグアイを拠点に活動しています。
12歳でメアリー・カセレスにクラシック音楽を習い始め、A・マグノン、グスタボ・カセナベ(ウルグアイ)、モノ・フォンタナ(アルゼンチン)、フレッド・ハーシ、マーティン・ベジェラーノ、アンディ・ミルン(アメリカ)等のレッスンも受けました。
ブエノスアイレスの Escuela De Música Contemporánea(元Berklee)を卒業。また、ニューヨークのブルックリンにあるSIM (School of Improvisational Music)で、Tony Malaby、Ralpf Alessi、Tim Berneなどの講師から即興音楽を学びました。
国内外での受賞も数多いミュージシャンです。
Bass
Nacho Mateu
ナチョ・マテウ
José Ignacio Mateu Graside

1980年11月5日、モンテビデオ生まれ。
ベーシスト、作曲家、プロデューサー,音楽教師。
13歳でポポ・ロマーノに、モンテビデオとブエノスアイレスでアンドレス・イバルブル、ダニエル・マサなどの偉大な教師に師事。2005年にはアルゼンチンの Berklee International Networkでプロとしてのキャリアを積み、 2010年にはNYでトニー・マラビー(sax)から即興演奏を学び、2013年にはバルセロナでカルロス・ベナベント(Paco de Luciaのベース)からエレクトリックベースのレッスンを受けています。
幼少の頃から、ファトルーソ兄弟、ルベン・ラダらに学び、アルバムも2008年に「Lord」(08)から「MoM」(18)まで多数発表。
フリエタ・ラダの、グラミー賞ノミネートアルバム『Corazón Diamante』にも参加しています。
Guiter
Matías Rada
マティアス・ラダ
Matías Rada Jodara

1961年10月31日、ルベンの長男として生まれました。10歳でドラムを習い始め、12歳でウルグアイのマルドナドにある音楽院に入学。
1982年、Tribulaciónというグループで、第1回モンテビデオ・ロック・アワードを受賞。
1984年にスペインに渡り、プロのミュージシャンとして活動しながら、マドリッドのバンド「RTVE」のドラマーであるマエストロ、ペペ・サンチェスのレッスンを受けました。
1990年にはポルトガルに渡り、ポルト・ジャズ学校でラテン・リズムを教えながら勉強を続けました。
ドラマーのジョン・ライリー、デニス・チェンバース、パーカッショニストのジョバンニ・イダルゴなどのクリニックやワークショップに参加しています。
父であるルベン・ラダとは、20年以上にわたって共演しています。彼と一緒にアルゼンチン、ブラジル、アメリカ、フランス、ドイツ、スウェーデン、ポルトガル、メキシコ、韓国、カタールなど多くの国々でツアーを行なってきました。
Vocal
Julieta Rada
フリエタ・ラダ
Julieta Rada Jodara

アルゼンチン、ブエノスアイレスでルベンの次女として生まれました。1991年から1995年まではメキシコで育ち、1995年からはウルグアイに住んでいます。
父ルベン・ラダ、兄マティアス、姉ルシーラと,幼い頃から一緒に歌って育ちました。
16才になると、バーやカフェでも歌い、TV番組にも出演するようになりました。
ウルバノ・モラエスのグループで歌手としてのキャリアを始め、以来、フィト・パエス、ウーゴ・ファトルーソ、マルティン・ブスカリア、ジョス・ストーンといった著名人のゲストとして歌ってきました。
現在まで、『Afrozen』(2012年)、『Corazón Diamante』(2015年)、『Bosque』(2019年)の3枚のアルバムをリリースしています。
2015年のアルバム『Corazón Diamante』は、カンドンベ、ファンク、ロック、ポップ、ソウルがミックスされたもので、ラテン・グラミー賞の新人アーティスト部門と、グラフィティ賞の最優秀ポップ・アルバム部門と最優秀女性ソロ・アーティスト部門にノミネートされました。
2016年にはアルゼンチンのガルデル賞も受賞しています。
フリエタは、歌だけでなく,作曲、女優業も本格的に習得し、すでに映画にも2本出演している才能溢れるアーティストです。



下記の動画は、もう一人の娘のルシーラがまだ少女の頃録った動画「El Mundo Entero(全世界で)」。
JuiLeta Rada
ルベン自慢の娘
Julieta Radaも初来日!
フリエタは、CDデビュー後は、あまりRubenとの共演は少ないそうだが、今回の日本公演には特別に参加することになった。
ステージでは、彼女のヒット曲も聴けるに違いない!
ルベン・ラダのCD
今年、ルベンが苦しい時代を育ててくれた母へのオマージュとして録音した
話題の最新作『AS NOITES DO RIO』が、
豪華日本語解説付きの輸入CDとして発売予定!
その他、彼の生涯の代表作を収めたアルバム2枚も入荷予定。
さらにフリエタの3枚のアルバムも発売中です。
(現在売切れのものは入荷次第販売します)

私の母カルメンはブラジル人で、叔母とは双子だった。私たちはとても貧乏で、一部屋に6、7人で住んでいた。母と叔母は二人ともメイドで、仕事と言えば皿洗いから床磨き、もちろん病気に備える金はほとんどなかった…今では腫瘍か何か見つかっても手術をして、あと10年は生きられる時代。人々は長生きできるけれど、当時の黒人家族にはそういうものはなく、神様が望んだ時には逝くしかなかった。私はと言えば、子供の頃は2歳から4歳まで結核を患い、発育不良で、黒人で、無知。黒人で無知は最悪だった。だから、世界中を巡りながら、その言葉を覚え、知らないことは読んで学習するしかなかった.、この録音は、そんな苦労をかけた母に感謝を捧げたアルバムなんだ…
カルリーニョス・ブラウンはパーカッショニストとして昔から知っていたが、2019年に彼が ”Los Tribalistas” でモンテビデオに来た時に個人的に会ったんだよ。アルバム最初に収録されている曲「Chão da Mangueira」(歌詞:ホ ナウド・バストス)をホナウドと考えている時に、カルリーニョスにレコーディングに参加してもらうことを思いつきすぐに電話したんだ。快く引き受けてくれた。彼の参加には非常に満足している。彼はバイーアから参加してくれて、カリスマ性と愛情をたっぷりと注いでくれたことにとても感謝している….
今は、全部は思い出せないが、キーボードと音楽制作は、私と一緒にグスターボ・モンテムーロがやってくれた。ベースのナチョ・マテウとギターのマティアス・ラダ、彼はいつも一緒だ。ルシーラとフリエタの姉妹がバッキング・ヴォーカル、「A Menina do Chapéu Azul」では、Silvaにも参加してもらっている。タンボールは私とロボ・ヌニェス(タンボール・ピアノ)だった…
このメッセージは、電話口でルベンが語ってくれたものです。
近日中に、
e-magazine LATINA にて、インタビュー掲載予定!
AS NOITE DO RIO
Aerolíneas Candombe
01 Chão da Mangueira
02 Dia da Morena
03 Nada Sem o Seu Olhar
04 A Menina do Chapéu Azul
05 Baião É Água Espraiada
06 Carolina
07 Sereia
08 Brasil
09 As Noites do Rio _ Aerolíneas Candombe
10 Travessia.wav
11 A Menina do Chapéu Azul ー Alt. Take
¥2,530 (税込み)
Arranjos/Arreglos de Ruben Rada e Gustavo Montemurro .
Gravado por/Grabado por Gustavo Montemurro, no estúdio/enelestudio LasManzanas, Montevideo, Uruguay.
Mixado por/Mezclado por Gustavo Montemurroe/y Ruben Rada,
com exceção de/a excepción de:
“Dia da Morena”, mixada por/mezclada por Rodolfo Simor , Vitória (ES);
“A Menina do Chapéu Azul(feat. Silva)”, mixada por/mezclada por Duda Mello , Rio de Janeiro (RJ).
Masterizado por Ricardo Garcia(Magic Master), Rio de Janeiro (RJ).
Capa/Portada por Beto Martins Design(Lisboa, Portugal).
Foto de Carmen María Silva e/y Ruben Rada: arquivo pessoal/archivopersonal de Ruben Rada.
Direção artística/Dirección artística: LeonelPereda e Ronaldo Bastos
Agradecimentos / Agradecimientos:Tamy, Francisco Vervloet, Carlinhos Brown, Flavio (Candyall), Isa Lorena, Silva, Lucas Silva, PatriciaJodara, LucilaRada, Julieta Rada, Matias Rada, (pessoal da Mangione e da SonyATV), João Bernardo, Marcelão de Sá, Rodolfo Simor…
現在、予約受付中!
RUBEN, JULIETA関連輸入CD
CD 1
1-1 Será Posible
1-2 Botija De Mi País
1-3 Malísimo
1-4 Tengo Un Candombe
Para Gardel
1-5 La Yapla Mata
1-6 Las Manzanas
1-7 Terapia De Murga
1-8 Dame Un Besho
1-9 Alegre Caballero
1-10 Orejas
1-11 Te Abracé En La Noche
1-12 Mamita
1-13 Juana Con Arturo
1-14 Flecha Verde
1-15 El Levante
1-16 Dedos
1-17 Bueno Que Voy
CD 2
2-1 Montevideo
2-2 Mejor Me Voy
2-3 Madre Salsa
2-4 Cococho
2-5 Ámame Detrás Del
Vidrio
2-6 Ayer Te Ví
2-7 Upa Nega
2-8 Porque Te Quiero Así
2-9 Joya y Spencer
2-10 Te Parece
2-11 Esa Tristeza
2-12 El Negro Chino
2-13 Punto Muerto
2-14 Mambo Liberador
2-15 Será Que La Canción
Llegó Hasta El Sol
2-16 Muy Lejos Te Vas
CD 3
3-1 La Escuela Del
Cha Cha Cha
3-2 Brindo
3-3 Mandanga Dance
3-4 Hoy Te Vi
3-5 Pensar En Nada
3-6 Funky Así
3-7 Mil Horas
3-8 Blumana
3-9 El Mundo Entero
3-10 Prestame Un Mango
3-11 Qué Pasa Con
La Adolescencia
3-12 Mi País
3-13 Llevale EstePollo
Al Maistro
3-14 Samba Rock
3-15 Disco Simple
3-16 Pop Y Pop
3-17 Chinga Chilinga
RADA / PARTE DE
LA HISTORIA
01 Que Me Importa
02 Don Pascuals
03 Suena Blanca Espuma
04 Esa Tristeza
05 Muy Lejos Te Vas
06 Mejor Me Voy
07 Dedos
08 Orejas
09 Dias de Eso
10 Heloisa
11 Negro
12 Biafra
13 Mind Proyect
14 Groove
15 Montevideo
JULIETA RADA /
BOSQUE
(2019)
01 Bosque.wav
02 Definiciones de amor
03 La noche nos llevó
04 Pájaro Negro
05 Reconocer
06 Sencillo
07 Si Ya No Estoy Con Vos
08 Solté Tus Manos
09 Sirena
JULIETA RADA /
CORAZÓN DIAMANTE
(2015)
01 El Surco de Tu Mano
02 Densa
03 Dombe
04 Corazón Diamante
05 Confín de los Tiempos
06 Malísimo
07 Desear de Cristal
08 Ciencia y Fantasía
09 Claroscuro de San Juan
10 Fuera de Foco
11 Ala Delta
12 Descarga de Amor
13 Guarida
14 Trenza
15 Heloísa
JULIETA RADA /
AFRO-ZEN
(2012)
01 Antídoto
02 Milongog
03 Encendida
04 Más Allá
05 Flecha Verde
06 Escalera al Mar
07 Your Star
08 Vértigo
09 Velocidad Crucero
10 Visionarios
11 El Ritmo No Va a Parar
12 Afro-zen
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ウルグアイ東方共和国
República Oriental del Uruguay
ウルグアイは、南米のブラジルとアルゼンチンに挟まれた小さな国ですが、隣国からの干渉を避けるため、スイスをモデルにし社会経済改革を成功させて、安定した民主主義国家を築きました。その後紆余曲折はありましたが、国民の民主主義に対する想いは強く、あの「世界一貧乏な大統領」を生み出したり、音楽では現在も世界に強い影響を与え続けるなど、独特な魅力を発散し続けている国です。日本とは今年外交関係樹立100周年を迎えています。
ウルグアイは、ブラジルとアルゼンチンの間にある人口353万人(現在の日本の静岡県の人口よりも少ない)の小さな国です。
国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、その原義はグアラニー語で「uru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)」とされます。正式国名の「東方」は同川東岸地域をかつてバンダ・オリエンタル(東方州)と呼んだことに由来します。
ブラジルとアルゼンチンの戦いの末、イギリスの仲介により、1828年8月27日「ウルグアイ東方共和国」として独立しました。独立後も両国からの干渉は続いたのですが、やがて、イギリスの介入で内政干渉が和らぎ、その後多くのヨーロッパの移民も増え、イギリスから入った鉄道網の拡大で経済は発展。
しかし、20世紀に入り、また内戦が続いていましたが、内戦に勝利したバッジェ大統領がスイスをモデルにした社会経済改革で、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となりました。ウルグアイが「南米のスイス」と呼ばれた所以です。バッジェ大統領はウルグアイを南米で一番安定した民主主義国家に仕立てたものの、1929年、彼が亡くなったのと大恐慌の影響もあって、一気に経済も悪化、政情は不安定になり、大土地所有制度の解体などを求めた南米最大の都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈するようになりました。
最近、「世界で最も貧しい大統領」として,リオ+20で行った演説が世界中の注目を集めたホセ・ムヒカ元大統領は、大学卒業後にこのトゥパマロスのゲリラ運動に参加、6発の銃弾を受け、4度の逮捕(うち2回は脱獄)を経験していましたが,軍事政権終了後に大統領に上り詰めた偉人です。彼のあの演説はもちろん、発言は世界中の人々,特に若者たちから支持されましたね。
ホセ・ムヒカ ホセ・ムヒカ 世界一貧しい大統領の人生〜名言で学ぶ教訓
さて、トゥパマロスの活動が活発になると、軍部の政治介入が露骨になり始め、1973年には事実上の軍事政権が成立。一般市民への弾圧まで厳しくなり、辛い日々が続きましたが、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票が否決され、85年に民政移管が行われました。2004年には、社会党、共産党を含む20以上の左翼、中道勢力が当選して、それまで続いた二大政党時代は終結し、2009年にホセ・ムヒカ大統領の誕生となりました。大まかには周辺の南米諸国と同様な歴史を辿ってはいますが、この国に根付いている民主主義の概念は強く、今でも民主の概念は大きく息づいている国と言われています。
ウルグアイとアルゼンチンは、あの海のようなラ・プラタ川を挟んだ対岸にあります。アルゼンチン・タンゴ揺籃の時期にはブエノスアイレスのサンテルモ、ボカ地区周辺には黒人もたくさんいて、タンゴという音楽の形成に大きな影響を与えてたと言われます。しかし、アルゼンチンではだんだんと黒人に対しての締め付けが厳しくなり、黒人たちはほとんどが対岸のウルグアイに逃亡したと言われます。とは言え、ウルグアイでも、黒人に対する偏見は大きなものだったそうです。16世紀にヨーロッパから移住を始め、ホロ・コーストの時期にたくさんやってきたたユダヤ人や、黒人に対する差別は南米諸国でも大きく存在していて、ウルグアイもラダの幼少時代までは大変だったといいます。しかし、ルベン・ラダは音楽の道を選び,世界を巡ってたくさんのことを学びました。黒人にとって「無知」であることは最悪、と行く先々でその言葉を覚え、オウムのようにすべての言語を話し(本人の言葉から)、多くの絶望的な現実に出会い、それと闘うにはたくさんの本を読み、勉強するしかなかった。そして、ムヒカとは違った方法で今の立場を手に入れたのでした。
「しかし、どうやらここは自由の国のようで、誰かが黒人を酷使することは憲法で認められていないし、黒人やユダヤ人が共和国の大統領になることも……すべてオープンなのだ。私は子供たちに、「ダメと言われるまでは頑張れ、ダメと言われたら戦え」と言っています」(ルベン・ラダ)
ルベン・ラダの詳細な足跡
世界中を忙しく飛び回ってきたルベン・ラダは、時代時代に大きな影響を与えてきた。
主にスペイン語Wikiの情報だが、いくつか年度など不正確な物もあるが、
膨大な音資料を聴く際にお役立てください。
なお、年代も含めて完璧な斎藤充正氏による
ラダの分析記事が
e-magazine LATINAで始まっている。
これはウルグアイ人もびっくりのもの凄い記事。是非e-magazineLATINAに!!!
Omar Ruben Rada Silva(モンテビデオ、1943年7月16日)は、ウルグアイのミュージシャン、作曲家、パーカッショニスト、歌手、俳優、テレビ司会者であり、「Negro Rada」として知られている。
彼が音楽の世界に足を踏み入れたのは、10歳のとき、ブラック&ルボロのグループ「Morenada」のメンバーとしてでした。彼の最初の芸名はサパティートで、その年齢ですでにヨーロッパ・サイズの43(26.5cm)の靴を履いていたからだ。15歳から16歳にかけて、「ラ・ヌエバ・ミロンガ」というムルガに出演した。当時、彼はウルグアイのカンドンベの重要な作曲家であるペドロ・フェレイラのオルケスタ・トロピカル・カンドンベ・クバナカンで歌っており、ラダはこのペドロがこのジャンルに重要な影響を与えた人物であると認識していた。17歳のとき、 リッチー・シルバーという芸名でバンド「Los Hot Blowers」のフロントマンとしてデビュー。
ホットブロワーズ
1958年から1962年にかけて、ピアニストのパコ・マニョーサが結成したジャズグループ「The Hot Blowers」というモンテビデオ・ホットクラブのアンサンブルにボーカルとして参加した。フェデリコ・ガルシア・ビジル、ダニエル・”バチチャ”・レンシナ、ウーゴとオスバルド・ファトルーソ兄弟、エンリケ・”ペロ”・デ・ボニ、リンゴ・シールマン、デートリッヒ・オルトマン、モリス・パルド、トマス・”チョチョ”・パオリーニ、ギジェルモ・ファカル、モイセス・ルーソ、ラモン・”ベベ”・アルフォンソ、コメディアンのカチョ・デ・ラ・クルスなどの著名なミュージシャンがこのグループのメンバーだった。
このバンドは、3枚のEPアルバムをリリースし、チリ国内を広くツアーするなど、地域的に認知されていた。
頻繁に行われるライブやテレビ番組で、ラダはその音楽的才能だけでなく、ユーモラスで冗談好きな一面で人々を魅了し、その頃の姿が今でも彼に結びついている。
1965年にはエル・キントに参加し、プロの音楽家としてのスタートを切った。このバンドは、最初は英語でダンスミュージックを演奏していましたが、次第にスタイルや言語を変えて自分たちの曲を手がけるようになりました。エル・キントは、カンドンベを電気楽器、トゥンバドル、ドラムスで演奏し、さらにスペイン語で歌う曲を作った先駆者として知られています。彼らが定義したカンドンベ・ビートは、サイケデリック・ロック、カンドンベ、ブラジル音楽、その他様々なスタイルをミックスしたものでした。彼らの特徴は、革新的な精神と優れた音楽的アレンジです。ボーカルはRada、Eduardo Mateo、Urbano Moraes、Walter Cambónの4人。エル・キントによる録音で、アルバム 『Musicasión 4 ½』、『Circa 1968』、CD『Clásico』をリリース。
エル・キントの後、彼はトーテムというグループを結成した。トーテムは、3枚のLPをリリースしただけで、1970年から1973年までの短い活動だったが、当時から現在に至るまで、ウルグアイのロック音楽において最も印象的なバンドのひとつとなった。ロックンロール、ラテン音楽、カンドンベなどの要素が融合し、ルーベン・ラダの独特の声が加わったことで、このグループはウルグアイの若い音楽界の頂点に立つことになった。Tótemと一緒に、グループの最初の2枚のアルバムをレコーディングし、 「Dedos」(Eduardo Usetaとの共作)、「Biafra」、「Heloísa」、「Negro」などの曲を作曲した。
76年、マイルストーン・レコードにファースト・アルバム『Goldenwings』を録音した。ギターのDavid Amaro、フルートとパーカッションのHermeto Pascoal、パーカッションのAirto Moreiraが参加しています。 77年には、ウーゴ・ファットルーソ、オスバルド・ファットルーソ兄弟、リンゴ・シールマンとともに、アメリカで制作されたオーパの2番目のLP「Magic Timeマジック・タイム」のレコーディングに参加した。パーカッションにアイルト、ボーカルにフローラ・プリム、ギタリストのバリー・フィナーティが加わった。 このアルバムは、当時流行していたジャズ・ロックの影響を強く受けた音楽にカンドンベを融合させたものだった。このアルバムは、Radaを除いたバンドの前作「Goldenwings」の路線を踏襲しており、専門の評論家からも非常に高い評価を得た。「Magic TIme」には、後にウルグアイ音楽を代表する曲となる、ラダとウーゴ・ファトルーソによる「Montevideo 」が収録されている。また、オーパは、1973年アイルト・モレイラに認められて彼のアルバム「フィンガーズ 」に参加していたが、そのタイトル曲はラダの「Dedos (Fingers」でLPの英語タイトルは「Fingers (Dedos)」だった。つまり、ラダがオパに参加したのはアイルトがプロデュースし、ウーゴがディレクションした「マジックタイム」が最初だった。 1981年、すでにアルゼンチンにいたラダは、アルバム「 A Los Shakers」に「オトロシェイカーズ」の名で登場したバンド「オパ」とレコーディングを行った。 同年、オーパはウルグアイで初めて、歴史的なコンサートを2回行いました。 1987年10月17日、モンテビデオのTeatro de Veranoで再会し、コンサートを行った。 このコンサートから、1988年にアルバム「 Opa en vivo」がリリースされた。1980年代のラジオでは、『マジック・タイム』の「Dedo」曲が流れると、オーパの処女作と区別するために、「Opa con Radaオーパ・コン・ラダ」という表現がよく聞かれた。そして、2005年3月、テアトロ・ソリスでの公演が最後となった。