「タンゴの女王」藤沢嵐子さん死去

「タンゴの女王」と称され、1991年に惜しまれつつも引退。引退コンサートの1ヶ月後から暮らし、終生の地と決めた新潟県長岡市で、藤沢嵐子さんが8月22日、この世に別れを告げた。享年88歳。

 

藤沢嵐子さんがアルゼンチンで一世を風靡したのは1953年、今から60年前のこと。今だにブエノスアイレスで“タンゴ”と口にすると「日本から来たのか?ランコ・フジサワを知ってるか?」と尋ねられるのも珍しいことではないかもしれない。

 

東京音楽学校(現東京芸大)を結果として中退し、ポピュラー歌手を目指したものの“色がない”と評されていたが、その“色のなさ”に惚れ込んだのが生涯の伴侶となる早川真平氏。オルケスタ・ティピカ東京の専属歌手になり、1951年「バンドネオンの心」を歌ってデビュー。後に藤沢さんは「早川との出会いが全てだった。真ちゃんがいなかったら、私の歌人生は全く別のものになっていたでしょう」と語っている。

 

銀座のクラブ「シロー」や「銀馬車」などで歌った後、1953年アルゼンチンへ。当時ラジオ東京(現TBS)と専属契約をしていた早川氏の3年分のギャラを前払いしてもらい、「このお金でアルゼンチンの本場に行って、極めつけを勉強しよう」と決め、早川氏、藤沢さん、ピアニストの刀根研二氏と3人でアルゼンチンへ(当時の飛行機代は一人83万円だったそうだ)。新規ラジオ局〈ラジオ・スプレンディー〉に週2回出演し、生放送で歌う。「レコードでスペイン語を覚えたから、私のスペイン語はブエノスアイレスなまりのカステジャーノ」と生前の藤沢さん。これも“色のなさ”を物語るエピソードかもしれない。ラジオから流れる歌声に、ポルテーニョたちは「日本から来たばかりの人間がこんな粋なカステジャーノで歌えるはずがない。きっと移民の花屋か洗濯屋の娘が詐称しているに違いない」と疑われもしたという。この放送はテープになって日本に運ばれ、ラジオ東京の「嵐子アワー」で流され、アルゼンチンと日本で人気は不動のものになった。

 

あまりにも有名な当時のペロン大統領主催の慈善演奏会での“御前歌唱”である「ママ、私恋人が欲しいの」のエピソードなど、1964年までに藤沢さんの訪亜は4回。既にアルゼンチンだけでなくラテンアメリカ全体にその名は広まっており、時代はだいぶあとになるが、オルケスタ・デ・ラ・ルスが中南米で大ブレイクした時、歌手のノラさんに対し「ランコ、ランコ」と声がかかったというエピソードも。

 

 

紅白歌合戦に57年から61年まで連続出場するなど輝かしい第一期黄金時代の後、60年代後半からの世界的ビートルズ熱でタンゴは下火に。70年にティピカ東京は解散。藤沢さんも引退するが、〈タンゴ100周年〉という大義名分のもと、記念すべき年をティピカ東京と共に締めくくってほしい、という周囲の声に押され、80年にカムバック。ピアソラ来日時の共演など、その後も順調に復帰のレールが敷かれていたが、84年に早川氏がガンで帰らぬ人に……。最大級の悲しみに暮れた後、これを転機に、藤沢さんは“自分の色”を出していく決意をし、91年の引退コンサートまで走り続けた……

引退から22年、帰らぬ人となった藤沢さん。心よりご冥福をお祈りします。

 

月刊ラティーナでは次号2013年10月号で、藤沢嵐子さんの追悼記事を予定しております。