‘ニュース’ カテゴリーのアーカイブ

メキシコ社会の希望、 先住民女性初の大統領候補

2018年1月27日 土曜日
町に貼られた、マリチュイ支援集会のポスター

町に貼られた、マリチュイ支援集会のポスター

2017年9月に起こったメキシコ大地震からの復興よりも、2018年6月の総選挙に向け、忙しそうなメキシコの政治家たち。現政権PRI(制度的革命党)が推すのは、元メキシコ大蔵公債省大臣のホセ・アントニオ・メアデ・クリブレーニャ候補だ。2017年に汚職で逮捕された、元ベラクルス州知事のハビエル・ドゥアルテと親交が深かった人物なだけに、評判は悪い。PRIに対する不信感から、PRD(民主革命党)やPT(労働党)、MORENA(国民再生運動)など左派政党の台頭も目立ってきてはいるが、どの政党も結局は己の利害しか興味がないのに、民衆は気づいている。
そんななか、ハリスコ州出身で、先住民ナワトルの女性、マリチュイこと、マリア・デ・ヘスス・パトリシオ・マルティネスが、次期メキシコ大統領に立候補した。伝統薬学の医師、人権活動家でもある彼女は、EZLN(サパティスタ民族解放軍)と、全国先住民議会により、2017年5月に発足された「先住民政府」のリーダーだ。メキシコ社会で未だに、差別し続けられている先住民だが、マリチュイは、そんな先住民たちの社会のなかにもある、男女差別を訴えてきた。彼女の目的は、キャピタリズムと家父長制への抵抗、環境を破壊し、先住民の土地を奪略し続ける鉱業、エネルギー産業の廃止である。ただ、無所属であるマリチュイの、大統領選への出馬にはINE(メキシコ選挙管理局)の認可が必要だ。そこで、2017年10月より、マリチュイは、EZLNの支援のもと、投票有権者たちの署名を集め、INEに交渉するために、全国各地で集会を行なっている。
EZLNが、マヌ・チャオを含める多くのアーティストたちからも支持されているように、メキシコの文化関係者たちもマリチュイを支持している。メキシコ国立自治大学、ライヴハウスや、カフェでも、署名集めの支援イべントが続々と開催され、若いアーティストたちが、グラフィティやデザインを駆使して、町じゅうに彼女のキャンペーン・ポスターを貼り、壁画を描いている。PRDの創始者で、リーダーでありながら、2014年に同党を離脱した、クアウテモック・カルデナスが、次期大統領候補者のなかで、最も明確な目的を持っていると評価するほどだ。社会の希望である彼女だが、大統領にはなれないと世間はいう。しかし、民衆が、ただ権力に屈しているだけでないことを世に示すためにも、マリチュイの闘いに共鳴するのは、あながち間違っていないだろう。
(メキシコシティ●長屋美保)


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人生で最高の新年をコパカバーナビーチで迎えたファンキ界のシンデレラ、アニッタ

2018年1月23日 火曜日
大晦日野外ライヴでのアニッタ

大晦日野外ライヴでのアニッタ

2017年の最後の日である大晦日の夜に、毎年行われるリオデジャネイロのコパカバーナ海岸での打ち上げ花火と野外音楽ライヴ。カウントダウン直後の新年を祝うイベントに、今年はブラジルで大ブレイクしている人気歌手のアニッタ、フレジャー、シダーヂ・ネグラ、ベロの他、ブラジル交響楽団やリオのカーニバルのコンテストで昨年優勝したエスコーラ・ヂ・サンバの、ポルテーラとモシダージ・デ・インデペンデンチが参加し、大晦日のイベントに花を添えた。
「ショウ・ダス・ポデローザス」で現象的なヒットを飛ばし、一躍時代の象徴となったファンキカリオカをベースにした歌手のアニッタ。その美貌とセクシーなボディーで、現在ブラジル芸能界ではセレブ的な存在感を放つブラジルのポップスターが、ステージから「人生の中で最も最高の新年だった!」と、コパカバーナビーチを巨大なバイリファンキ会場に変え、数々の人気ヒット曲を歌い踊った。
リオ市の郊外、エスコーラ・ヂ・サンバのポルテーラが位置するMadreira地区、Honório Gurgelで生まれ育ったアニッタは、「私を信じて今まで応援してくれた皆さん、これからも裏切らないで応援し続けてね!」とファン(同じ郊外で生まれ育った人達)へ感謝の言葉を送った。それもそのはず、この日が来るまで、カリオカであれば誰でも知っているはずの、世界的に有名な大晦日のこの野外ライヴを体験したことがなかったのだと言う。これが彼女にとって、人生初めてのコパカバーナ年越しイベントへの参加だったのだ。
ステージを終える前に「みんな、自慢のこの私のお尻、今日は振らないと思っているの?」を観客に投げかけ、2013年のヒットソング 「ショウ・ダス・ポデローザス」を披露しファンを沸かせた。
カウントダウンの打ち上げ花火は、昨年の12分より5分長くなり、17分間行われた。しかしながら、事前に予想されていた年越しイベントの動員数270万人を下回り、訪れた人々の数は240万人だったことが市の観光事業局から発表された。ブラジルホテル産業協会リオデジャネイロ支部によると、大晦日のリオデジャネイロ市のホテル稼働率は97%、そしてリオデジャネイロ市を大晦日に訪れた観光客は約91万人だったという。
今や、国民に絶対的な人気を誇るリオデジャネイロ生まれのファンキ界のシンデレラ、アニッタではあるが、今年は原点に戻りまた新たな気持ちでスタートを迎えられた新年になったのであろう。
(リオデジャネイロ●MAKO)


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オス・チンコアンス、サルヴァドールでCD発売と伝記出版記念ライヴ

2018年1月19日 金曜日
カストロ・アルベス劇場で開催された記念ライヴのポスター

カストロ・アルベス劇場で開催された記念ライヴのポスター

バイーアの73歳の異色シンガー、マテウス・アレルヤが今年の始め2枚目のソロアルバム『Fogueira Doce』を発表。そして12月に自ら活動していた伝説のアフロコーラスグループ、オス・チンコアンスが出したLP3枚のCD発売化と同グループの伝記出版記念ライヴをカストロ・アルベス劇場で行った。ゲストにマルガレッチ・メネーゼスとサウルも参加。
日本語だと怪しそうな意味のオス・チンコアンス。彼らをすでにご存知のラティーナ読者なら、バイーアオタクと認定されるだろう。グループ名はチンコアという鳥の名前が由来らしい。
バイーアの海岸をバックに白いズボンを履いた上半身裸の3人の男性のLPジャケットが有名である。産業が発達していた18世紀頃に栄えた町カショエイラ(サルヴァドールから116キロの距離)。奴隷制が廃止されるまで、4万人以上の奴隷たちが、その地域のサトウキビ農場で働かされていたらしい。黒人比率が多く、アフロ文化や宗教も根強く残っている。
50年代後半、この町で結成されたグループは、コーラスグループ、トリオ・イラキタンの影響を受け、ボレロのスタイルでアルバム『Meu Último Bolero』を発表(60年)。しかし、全く売れず、マテウスがこのグループメンバーに加入。アフロ宗教のカンドンブレやサンバジホーダなどのリズムをとりいれた。そしてサンバのネルソン・カヴァキーニョが70年、カルトーラが74年に最初のアルバムを発表した頃、73年に発表したチンコアンスの2枚目のアルバムは、3名のボーカルのボレロ調のハーモニー声と共に、アフロの要素のリズムとギターを交えたスタイルに発展。アフロ宗教音楽とブラジルポピューラー音楽をミックスした画期的なアルバムとして評価された。収録曲には、近年カルリーニョス・ブラウン、チンバラーダ、マメット、ベシーガ70らにカバーされて再ヒットされた曲も数曲入っている。77年に発表したアルバムにある曲「Cordeiro do Nanã」は、ナナンというカンドンブレの神様に捧げた曲で、ジョアン・ジルベルトやカエターノもカバーしたことで多くの人に知られることになった。
1983年にグループ3名はアンゴラ文化省のプロジェクトでルアンダに渡る。そのままマテウスたちは現地に住み続けたが、メンバーの一人バドゥはソロ活動のため、リオへ戻りグループを脱退。残りのメンバーであるダジーニョの死により、マテウスは2000年にバイーアへ戻ってきた。
今回のCD化記念ライヴには、現在スペインのカナリア諸島に住んでホテルなどで歌うバドゥを招待。マテウスとサルヴァドールで34年ぶりに再会し、共にカストロ・アルベス劇場で共演にいたったわけである。
(バイーア●北村欧介)


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フランスの各世代に愛された国民的ロック歌手ジョニー・アリディ、永眠

2018年1月15日 月曜日
コンコルド広場からマドレーヌ寺院に進むジョニー・アリディの葬列

コンコルド広場からマドレーヌ寺院に進むジョニー・アリディの葬列

葬儀ミサのあったマドレーヌ寺院前

葬儀ミサのあったマドレーヌ寺院前

12月6日に74歳で亡くなったジョニー・アリディの葬式が12月9日に行なわれ、ファンと最後のお別れをした。正午前に葬列がシャンゼリゼ大通りを凱旋門からコンコルドまで下って葬儀ミサの行なわれるマドレーヌ寺院に進んだ。フランス全国から詰め掛け、朝6時から寒さの中じっと待機するファンたち。その人波はとどまることを知らない。テロ警戒中でもあり、警備にあたる警官は1500人に上った。
ゆっくりシャンゼリゼ大通りを下るジョニー・アリディの白い柩を載せた車をエスコートするように後続する約700台のオートバイ。革ジャン姿で颯爽とオートバイにまたがるジョニーのイメージそのものだ。沿道を埋め尽くしたファンの拍手もオートバイのモーターのうなる音にかき消されるほどである。シャンゼリゼ大通りがこれほどの数のオートバイで埋め尽くされたのは初めてだ。葬列を待ち構えるマドレーヌ寺院前の特設ステージではジョニーのバンドが代表曲を演奏し、ファンたちが大声を張り上げて歌う。集まったファンの数は数十万人、周辺は身動きできないほどだ。寺院前でマクロン大統領が弔辞を述べた。
60年代初めにロックンロールでデビューしたジョニー・アリデイはアメリカン・ドリームをフランスにもたらした。金髪で碧眼の容姿、芸名も英語風のハリディからフランス語の発音のアリディとなってフランスの若者の心をとらえた。65年に結婚したシルビー・バルタンと共に「イエイエ」時代を築く。それから半世紀という長きにわたって歌い続けたジョニー・アリディを自らの人生にオーバーラップさせたファンたちも多い。移りゆくフランス社会を映し出す鏡でもあった。街頭インタビューに答える人々の口から、「ル・ペニタンシエ」(1964年)、「ジュ・トゥ・プロメ」(1987年)、「マリー」(2002年)などジョニーの代表曲がごく自然にこぼれる。熱烈なファンでなくともジョニーの曲はフランス中に溢れ、振り絞るように歌うその声が脳裏に残る。
大半のフランス人にとってはまるで家族の一員のようなのだ。歌手として、俳優として活躍したジョニーは生い立ちから5度の結婚の私生活までメディアに騒がれ、作り上げられた国民的スターという虚像。レコードやコンサートチケットなどジョニーに関するものすべて収集するコレクター、髪型、着衣や入れ墨にいたるまで完璧にジョニー風にするファン、そっくりさんが開くコンサートだってある。
そうして幸せな気持ちにさせてくれたジョニー・アリディはカリブ海の仏領サン・バルテルミー島の海の見える墓地に埋葬された。これでやっとファンから解放されたのかも知れない。合掌。
(パリ●植野和子)


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サンバの日に70歳の誕生日をテレビ番組で祝った歌手、アルシオーネ

2018年1月13日 土曜日
サンバ界を代表する女性歌手、アルシオーネ

サンバ界を代表する女性歌手、アルシオーネ

グローボの土曜の番組「FANTÁSTICO」での様子

グローボの土曜の番組「FANTÁSTICO」での様子

“マホン(栗色の娘)”の愛称でブラジル庶民に愛されているブラジル音楽サンバ界を代表する女性歌手、パワフルで哀愁漂う声で魅了し続けるアルシオーネが、11月21日に70歳の誕生日を迎えた。これを機に、アルシオーネの誕生日の翌週12月2日(Dia Nacional do Samba= サンバの日)、ブラジル最大手のテレビ局、グローボの土曜の番組「FANTÁSTICO」が、70歳を迎えたばかりのアルシオーネの誕生日を祝い、サンバを称えるインタビュー形式のスタジオ収録ライヴ番組を放映した。
1947年にマラニョン州の首都、サン・ルイスに生まれたアルシオーネは、ファーストアルバム『A voz do samba』でレコードデビューを果たし、その後、瞬く間にブラジル国民を魅了し始めた。
ボサノヴァ界のパイオニアであり、現在でも活動を続けているホベルト・メネスカルが、レコード会社“Philips”の音楽監督を務めていた時代に、サンバ界の女王として1971年から既に国民の大人気を得ていたクララ・ヌネスの共存相手として、アルシオーネをプロデュースし、ベッチ・カルヴァーリョと並ぶ、ブラジル音楽史上最も重要な女性サンバ歌手として、その地位を確立させた。ノルデスチ(北東部)からリオに移り住み、プロとして活動してからは、サンバの歌を始めとするアメリカ音楽のスタンダード、ボレロやシャンソンなどあらゆるジャンルの音楽をリオのナイトクラブで歌い、その後、テレビで歌うようになったという。
高音から低音までを自由に操る洗礼された声、体内に宿るインストゥルメンタル奏者のような音楽的テクニックの才能、音楽性は軍事警察のバンドマスターを務めていた父親の影響なのだ。そんな彼女の幼少から現在に至るまでの音楽歴史を語り、最近の体調不良の逸話やアメリカのロックミュージシャン、アクセル・ローズとの出会いなど、歌手生活としての歩みを振り返りながら数々のエピソードを交え、彼女のヒット曲をスタジオで熱唱した。
昨年の12月に体調不良を訴え入院していたアルシオーネ。医者からダイエット推薦を言い渡され25キロの体重を減らし、以前よりもより健康的に、そして幸福感に溢れる姿で大物アーティストとして活力みなぎるエネルギーである。そして、第一線で活躍し続ける貫禄と風格で満ち溢れている。
太くて深みあるアルシオーネの歌声は、母なる大地のように逞しく、そして優しく響く。ブラジルの色彩と音色を表現する“栗色の熟年歌手”として、古希という70歳の長寿を喜び合うお祝いに相応しい時間をこの日、お茶の間に届けたのだ。
(リオデジャネイロ●MAKO)


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敬愛されるパナマ出身のヴォーカリスト、パトリシア・エレナ・ヴリエグ

2018年1月9日 火曜日
パトリシア・エレナ・ヴリエグ

パトリシア・エレナ・ヴリエグ

運河の国パナマの音楽といえば、コロンビアから独立した国ということもあってバジェナートとクンビアを土着化させ、旧宗主国に拮抗する発展をみせたことだろう。そして、運河建設のため移入されたアフロ系労働者によってあらたな血が入り込み、そこからサルサや、近年ではレゲトンのスターを生み出す土壌となった。
サルサはいうまでもなくルベン・ブラデス、レゲトンはその草創期にカリブ、および中米諸国で大ブレークし、マイアミに活動拠点を移したエル・へネラルがいる。そうしたメジャーな音楽とは別に、 社会的メッセージを歌詞に綴り、アコースティックな音楽で活動する歌手たちもいる。こうした存在は外からいちばん見えにくい。
パトリシア・エレナ・ヴリエグという女性歌手がいる。最近、パナマの老人ホームで慰問コンサートを開いたことが地元のマスコミなどで取り上げられ、そのコンサートの様子も動画で配信され話題になっていたので、紹介しようと思った。
その音楽はキューバの革命後に一躍主流となったヌエバ・カンシオンの影響を強く受けたものだ。パナマは、運河を米国の施政から取り戻す国民的運動のなかでメキシコとともに冷戦下でもキューバと国交を早くから回復し、航空路線も回復させた親キューバ派の国である。当然、キュ ーバの音楽はリアルタイムで入ってきた域内諸国でも稀有な国だ。
パトリシアは、2003年はデビューアルバム『トゥス・プロメサス』を発表して以来、今日まで4作のアルバムを出している。特に、2011年に発表したアルバム『ア・ウナ・カントーラ』はアルゼンチンの国民的歌手であると同時に、ラテンアメリカの母、ともいわれたメルセデス・ソーサに捧げられた作品で、これはソーサも認めることになり一緒に仕事する機会をもつことになった。これでパトリシア音楽の傾向が理解できる。
パトリシアの代表作は、2015年に発表された『カバンガ』だろう。これはパナマの先住民の言語から取られたタイトルで、パナマで栽培される果物を素材とするお菓子を意味する。それを食べて育ったパナマ人の民衆、とくに貧しい民衆に捧げられた歌だ。この歌は、パナマで制作された映画の劇中音楽としても取り上げられたようだ。
ボレロの名曲「ベサメ・ムーチョ」なども艶ぽく歌い上げてもいる。そのあたり、ヌエバ・カンシオン系歌手よりは柔軟だろう。
(パナマ●上野清士)


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マルチ芸人ジョー・ソアレスの自伝(上巻)刊行、ベストセラーへ

2018年1月5日 金曜日
原題『O LIbro De Jô』 (『ジョーの本』邦訳)

原題『O LIbro De Jô』
(『ジョーの本』邦訳)

ジョー・ソアレス。1938年リオで生まれたジョーは映画俳優にして“太目の”コメディアンとしてデビューしたのが、1950年代末であり、1970年代以降はブラジルのテレビ文化の躍進と並行してその多彩な才能を発揮してきた。英語もフランス語も自由に駆使する彼のトークショーに出演した人たちは、元大領領、政治家から有名ミュージシャンや作家はもちろん歴史学者・数学者や黒人運動活動家まで、雑多といえるほど多彩であり、日本人では、渡辺貞夫、小野リサ、宮沢和史も彼とのトークを楽しんだのだ。さらには作家としては、邦訳された『リオ連続殺人事件』をはじめとするミステリー小説でベストセラーを連発しており、文字通り多才なタレントだ。
そんなジョーも今や79歳になり、周囲から懇願されて自伝を出すことに。とても一冊では収まらず、上下二巻となったが、その上巻が11月24日にCia das Letras(文芸出版)から刊行され、大きな話題となっている。タイトルは『ジョーの本』。528頁と分厚いが、たちまちベストセラー入りしている。
但し、自伝といっても彼自身が書いたのではなく、著名な日系ジャーナリスト、マチナス・スズキJrが、100回以上も彼にインタビューしたものをまとめたものだ。累計録音時間は150時間以上という、超ロングインタビューの文章化だが、上巻には、家族のルーツから始まって、彼の少年期、青年期までが記されている。
彼はリオ生まれだが、父方のルーツは東北伯のパライーバ州だ。祖父はパライーバ州知事も務めた有力政治家であり、父親の叔父の一人は連邦議員にして外交官。親戚にはスポーツ界で活躍した人もいる。
父親オルランド・ソアレスは株の売買で財を成したが、その一人息子であったジョー(本名:ジョゼ・エウジェニオ・ソアレス)は、小学校まではリオ、13歳からスイス・ローザンヌの有名中高一貫校へ海外留学している。ジョーの話す英語もフランス語も完璧なのは、このスイス留学体験のおかげだ。
スイスで世界各国からの同級生たちと友情を深めたジョー少年は、大学はオックスフォードかケンブリッジを想定していたが、事態は急変、父親の事業が破綻してしまう。やむなく18歳でブラジルに帰国、旅行代理店をへて、演劇の世界へ。当時の人気映画監督カルロス・マンガのドタバタ映画『スプートニクの男』にアメリカ人スパイ役で出演し、芸能界デビューとなった。と、超面白本であり、早くも下巻の刊行が鶴首されている。
(レシーフェ●岸和田 仁)


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ポルトガルで最も愛された、国民的ロックスター、ゼ・ペドロ死去

2018年1月1日 月曜日
ポルトガルで最も愛された国民的ロックスター、ゼ・ペドロ

ポルトガルで最も愛された国民的ロックスター、ゼ・ペドロ

ポルトガルで最も愛されたロックアイコン、ゼ・ペドロことジョゼ・ペドロ・アマロ・ドス・サントス・レイスが11月30日、リスボンの自宅で死去した。享年61歳。
ポルトガル人に「君の国で一番有名で人気のロックバンドは何?」と聞けば、その人の音楽趣味が何であれ、いや音楽に興味がない人でさえ「シュットス」と即答するであろう国民的ロックバンド、シュットス&ポンタペス(Xutos & Pontapés)のギタリスト、そして結成メンバーとして知られている彼。リスボン生まれだが、幼少期には軍人であった父に伴って家族で現在の東ティモールに住んでいたこともある。1978年、英語圏のパンクブームに触発されたゼ・ペドロが新聞にメンバー募集の広告を出したことがバンド結成のきっかけで、以来ほぼオリジナルのメンバー編成で39年に渡り第一線で活動を続けてきた、ポルトガル唯一無二のスタジアムロックバンドだ。
個人の活動では、地元ラジオ局での冠番組「ゼ・ペドロ・ロックンロール」をはじめとするラジオDJとして知られており、ポルトガルのロックを有名無名問わず紹介した彼の番組に影響を受けたと公言する若手ミュージシャンも少なくない。また、笑顔を絶やさない明るくフレンドリーな人柄から尊敬の対象となる一方で、シュットスの解散危機やロックンロールを地で行くライフスタイルが祟り薬物乱用からC型肝炎に感染。2011年には肝臓移植手術を受け、闘病生活を送りながらも音楽活動を続けていたが、帰らぬ人となった。
その死を悲しんだのは、ファンや音楽関係者だけではない。リスボンに本拠を置くサッカーチームのベンフィカは、生前熱心なベンフィキスタ(ベンフィカファン)であったゼ・ペドロに哀悼の意を表し、翌12月1日の対エストリル戦のホームゲームでは試合前に1分間の黙祷を行った。また、共和国議会も追悼のコメントを発表し、ジェロニモス修道院で行われた葬儀ミサにはバンドメンバーや家族らに加えリベイロ・デ・ソウザ大統領が出席し、会場外に詰め掛けた何百人ものファンが拍手で別れを惜しんだ。
独裁政権を打倒したカーネーション革命の4年後に結成されたシュットスは、そしてゼ・ペドロは、自由の象徴でもあった。「ポルトガル語の、ポルトガル人による、ポルトガル人のためのロックンロールバンド」に生きたミュージシャンがひとり、この世を去った。
(ポルトガル●山口詩織)


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クンビアを世界へ広めた、ソニデロの歴史を語る貴重な書籍が出版

2017年12月27日 水曜日
書籍『Ojos suaves』とモレーロス ©Miho Nagaya

書籍『Ojos suaves』とモレーロス
©Miho Nagaya

1950年代から現在に至るまで、メキシコの下町=バリオの路上で息づくサウンド・システム、ソニデロ。メキシコで、クンビアをはじめとするトロピカル音楽を定着させた大衆文化の代表である。そんなソニデロを研究してきた、スイスの写真家、編集者のミリアム・ウィルスが、メキシコとコロンビアのサウンド・システム文化に迫った写真集『SONIDERO CITY』(2013)、ソニデロのフライヤーや、ロゴタイプをデザイン的に見せる『Panther’s Collection』(2014)に続き、最新著書『OJOS SUAVE – SOFT EYES』を2017年11月に発表した。
同書は、著者が、2009年からメキシコを度々訪れ、取材してきた、メキシコシティ、モンテレイ、プエブラ、サンルイス・ポトシ、レオンのソニデロ風景写真や、ソニデロたちへのインタビュー、各地で流行ったクンビアのタイトル・リストなど、貴重な資料が満載だ。メキシコにおいて、クンビアが、どのように発展し、根付いていったかが、理解できる内容となっている。現場のディープな空気を捉えた写真も素晴らしい。
同書は、ソニデロの発祥地、メキシコシティ国際空港近くのバリオ、ペニョン・デル・バーニョ出身の、ホセ・オルテガ(通称、モレーロス)によって生まれた企画であり、彼に捧げられている。モレーロスは、メキシコを代表するトロピカル音楽レコード・コレクターで、音楽プロデューサーでもある。1970年代より、兄のジャスミンとともに、メキシコのソニデロたちが使用するクンビアのレコードを購入するため、コロンビアやペルーを含む中南米を旅した人物であり、メキシコのコロンビア音楽の発展に多大な貢献をした。現在もメキシコシティの路上で、彼のレコード・コレクションを販売しており、海外からDJやバイヤーたちが、買いに訪れるほどだ。
2017年11〜12月にかけて、本書に掲載される各地で行われた出版記念発表会では、著者とともに、本書に掲載の資料部分を担当した、DJ、レコード・コレクター、音楽家のカルロス・イカサと、モレーロスも同行した。 メキシコシティで行われた発表会では、モレーロスによるDJもあり、粋な選曲で会場の皆を踊らせた。近い将来に、メキシコの全ソニデロを網羅した本を出版したいというモレーロスの希望もあり、このソニデロ・プロジェクトは、さらに続いていきそうだ。
(メキシコシティ●長屋美保)


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「女性」をキーワードに紐解く カタルーニャ語圏の音楽の百年史

2017年12月23日 土曜日
入場無料。 開館時間は月〜土 9 時から20時、日祝9時から14時半。

入場無料。
開館時間は月〜土 9 時から20時、日祝9時から14時半。

11月9日からカタルーニャ州の文化施設パラウ・ロベルトでは『D’ONES: (R)evolució de les dones en la música』展が開催されている。ソプラノのコンチタ・バディアやフラメンコのカルメン・アマヤ、アンパラノイアから12月にブルーノート東京での来日公演を控えたトランペット奏者アンドレア・モティスまで、歌手や作曲家、演奏家として活躍する女性ミュージシャンにスポットを当てて、この一世紀の音楽界の動きを振り返る展示だ。カタルーニャ語圏(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島)のジャンルを超えた音楽史を「女性」を切り口にして俯瞰する企画は今回が初めてということもあり、「Dones(女性)/ones(波)」「Revolució(変革)/evolució(変遷)」の言葉遊びが散りばめられたタイトルが示唆する通り、主催者側の既存の音楽史に揺さぶりをかけるという意図が伝わってくる展覧会だ。
会場はジャンルごとに①子守唄②フォルクローレ③クラシック&オペラ④大衆音楽⑤音楽&詩⑥シンガーソングライター⑦ジャズ&ブルース⑧ロック&パンク⑨ポップス⑩アーバンミュージックという10のスペースで構成され、主要なミュージシャンの足跡を音声や映像も交えて振り返ることができるという構成。本展に登場する女性の数は千人を超える。
スペインでは極めて保守的だったフランコ独裁政権に終止符を打った70年後半から、急速に女性の社会進出が進んだ。こうした社会状況の変化は音楽界の数字にもはっきり現れており、女性がメインの音源の制作はこの50年で10倍以上に増加した。1960年代の10年間ではLPとEPを合わせても200枚程度に過ぎなかったが、2016年だけで150を超える作品が発表された。同様に、2016年の時点で主要フェスの出演者に女性が占める割合は平均26%と英米のフェスの平均17%を大きく上回る。
このように、本展は男性中心の構造という批判がある音楽界において今まで脇役の立場に置かれてきた女性の功績を適切に評価する試みであると同時に、「女性の声」によって大きく変化してきたスペインの社会の歩みの記録でもあり、大変興味深い内容となった。来年4月23日までの会期中にバルセロナを訪れる方は、立ち寄ってみてはいかがだろうか。会場はバルセロナを訪れる人なら誰もが一度は通るグラシア大通りにあり、同じ建物には観光案内所も入っている。
(バルセロナ●海老原弘子)


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