ガリフナ、カリブ、北米……内なる異文化を昇華した、ハイブリッド・ミュージック

ギジェルモ・アンダーソン 再来日!

 

文:松本未生

 
 
月刊ラティーナ2009年11月号18ページ
 
 
 
 
 
 
 

「わたしはほとんど知られていない国の出身。わたしの歌声は世界地図上の小さな点のような国から発する、本当に小さな声でしかない」
 自身の生い立ちから生まれ育ったラ・セイバの歴史、そして音楽に関するモノローグとライヴ映像がコラージュされたギジェルモ・アンダーソンの初DVD作品『ラ・カルタ・デ・ナベガシオン(航海の手紙)』の冒頭で、ギジェルモは自国ホンジュラスについてこう語る。
 今年6月28日に起こったクーデターによって、マヌエル・セラヤ大統領が追放され、現在もロベルト・ミチェレッティを代表とする暫定政権が国を動かしている中米の国、ホンジュラス。9月21日にはセラヤ大統領が大統領復帰を目指してひそかに帰国、10月7日に米州機構の監督下で初めて両者の対話が実現されたが、今後どのような展開になるか現時点ではまだ終着点が見えていない。この辺りのホンジュラス情勢に関しては、本誌先月号掲載の伊高氏の記事に詳しいので是非ご覧になって欲しい。
 件のクーデター以来、政情不安な国というイメージがついてしまったホンジュラスだが、昨年初来日公演を実現したギジェルモ・アンダーソンが、嬉しいことにまた日本へやってきてくれる。昨年の公演を聴いても分かったのだが、彼の曲には親しみ易く魅力的な音楽性と、高い社会性がある。前述したDVDはそんな彼の作品世界を理解する上で非常に興味深い案内役となってくれた。
 ホンジュラスでは国を代表するトップ・ミュージシャンのギジェルモ。と同時に、著作もあり、ホンジュラスに暮らす少数民族ガリフナやミスキート文化の研究、子どもの教育、環境問題など様々な社会運動にも携わっている。そして彼の音楽には、ラ・セイバという街とそれを取り巻く環境が大きく反映されている。
 ヨーロッパ中から船舶が寄港したカリブ海岸沿いの港町ラ・セイバ市は、ガリフナ、クレオール、先住民ミスキートの文化に、さらに近隣のキューバやジャマイカなどのカリブ文化と米国系のバナナ・カンパニーが持ち込んだ北米文化が混ざりあった文化の混血都市として成長した。
 バラエティー豊かな文化、その中でも影響を受けたのは、ガリフナ音楽だという。ガリフナは、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人と先住民アラワクが混血したのが始まりで、その子孫がイギリス人によってロアタン島に遺棄され、そこからホンジュラス、グアテマラ、ベリーズを中心としたカリブ海沿岸地帯に広がっていった。ラ・セイバにはガリフナ文化が色濃く残っており、彼らのコミュニティーでは伝統儀式や昔ながらの生活様式が継承されている。ギジェルモは幼い頃から良き隣人としてガリフナの人々と暮らし、その影響は彼の音楽と人生を形成する一要素となっている。ガリフナ太鼓とそのリズムを大胆にフィーチャーし、カリブ、レゲエ、バラード……と、どんな曲にも組み込んでしまうのがギジェルモ流だ。
 一方で、英語圏カリブから入植してきたクレオールの影響も無視できない。70年代まで、彼らは相当の勢力を持っており、バナナ・カンパニーがこの地にやってきたのも英語を解した彼らの存在が大きいという。彼らはダンス・ホールや、自身のラジオ局を所有し、ラ・セイバにレゲエのルーツであるロック・ステディや、ソカ、プンタ、カリプソなどホンジュラスの他地域ではまだ知られていなかったカリビアン・ミュージックをいち早く紹介した。また北米のブルースやソウルもこのラジオ局から発信され、ギジェルモも少年時代にはジェームズ・ブラウンやマーヴィン・ゲイ、ポール・サイモン、レノン&マッカートニー、ボブ・ディランを熱心に聴き、米国のSSWスタイルには相当な影響を受けた。
 同じくらい刺激を受けたのがパブロ・ミラネスで、その歌をラジオから初めて聴いたときは「ポール・サイモンかと思った、でもそれはスペイン語だった」とその驚きを語っている。そこから当時〈ラテンアメリカの新しい歌〉と呼ばれたムーブメントの一群のアーティストたちを聴き始める。「その時からラテンアメリカ音楽を本当の意味で学び始めた。ラ米音楽を学ぶことは、ラ米文学や社会的意識に目覚めることにも繋がっていった」という。相前後して、ブラジルの〈トロピカリア〉にも夢中になり、ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾから始まり、すっかりブラジル音楽のファンになった。
 多くのミュージシャンがより成功のチャンスがある大都市へ出て行くのに対し、ギジェルモは故郷ラ・セイバに残ることにこだわった。人には、「せめてテグシガルパやサン・ペドロ・スーラなど、もう少し経済的な動きがある大都市へ行け」「マイアミやメキシコに行けばアーティストとして成功できる」などとも言われたという。
 なぜラ・セイバに残ることに固執したのか?ギジェルモは、この町を離れれば、自分が作り出す曲の魅力が半減してしまうと知っていたからではないだろうか。「大都市に出なくとも、正しいやり方でやっていけば成功できると、自分のやり方・方法を試したかった。たしかに危険な賭けだった」が、彼はこの賭けに勝って、今やオランダ、ドイツ、メキシコ、台湾、日本、ブラジル、コスタリカ、ベネズエラ、スペイン、アルゼンチン……と世界各国のステージに出演している。最大の弱点が最大の魅力に取って代わり、ギジェルモの曲には、ラ・セイバが生き生きと描かれている。バリオ(=暮らしている地区)、街角、近所の人……、それはそこに暮らすものにしか描けない愛おしい日常、そして、オーディエンスは、その魅力にちゃんと気がついたのだ。
 海外ツアーを行って感じることは、どんなに遠く離れた場所の人とも、人間は違う部分よりも共通の部分が多いということだと言うギジェルモ(「クアルキエル・ルガール」はそんなメッセージを乗せた素敵な曲だ)。そしてその海外ツアーは常に、NYやブエノスアイレスではなく、この小さな港町から出発するという現実が、本当に面白いという。「アーティストが生まれた故郷で活動を続けられること、これは本当に幸運なこと」で、「自分の場所に居ながら、世界中とこの場所を分かち合える」今の状態が最高という。
 代表作のひとつ「エル・エンカルギート(お土産)」は、米国へ移民した親戚に郷土料理を届けるという歌詞で、家族、友人、食物、風景など祖国へ馳せる移民の郷愁を想って描いた、軽快なナンバーながらもほろ苦い気分になる曲だ。そういえば同じく中米グアテマラ出身のリカルド・アルホーナの曲にも「ウン・カリベ・エン・ヌエバジョルク(NYのカリビアン)」という名曲がある。最近米国に移民するラティーノ/ヒスパニック系で一番増加傾向にあるのが中米からの移民だと考えると興味深い。残りたくとも、より良い生活のためには故郷を去らざるをえない人たちもいる。彼らにとっても真摯な態度で歌い続けるギジェルモの姿は、母国ホンジュラスの誇りなのではないだろうか。
 最後になるがギジェルモ・アンダーソンのブログでは、彼のライヴや関連イベント、ホンジュラスやラ・セイバの様子がスペイン語と英語で、日記風に綴られている。また公式HPで、アルバム情報などもチェック出来るので、興味のある方には是非ご覧頂きたい。