ガリフナ、自然……そして、何よりもホンジュラスの未来への愛を歌う

ギジェルモ・アンダーソン・インタビュー

 

文:本田健治

 
 
月刊ラティーナ2008年8月号10ページ
 
 
 
 
 
 
 

 8月から全国展開する「セントロ・アメリカの風」「セントロアメリカの太陽」の企画は、日本ではほとんど知られていない中米諸国の、じつはレベルの高い音楽家集団によるフェスティバルだ。
 ところが、我々の国日本では、中米の音楽はほとんど知られていない。パナマの文化・観光大臣のルベン・ブラデスか、グアテマラ出身のリカルド・アルホーナの名前くらいしか届いていない。USAのマーケットでは大きな名前の彼らさえ、日本で語られることはまずない。しかし、現地で調査を始めてみて、中米のどの国にも、数は多くはないが、じつはレベルの高い優秀な音楽家たちが骨身を削って自国の音楽のために戦っていることを知ってきた。
 そのことをもっとも感じさせてくれたのがホンジュラスのギジェルモ・アンダーソンという音楽家だった。それは、ニカラグアで友人からもらった、たった一枚のCDがきっかけだった。しかし、その一枚の情報しか手に入っていない。とにかく行って聴いてみるしかない、と出かけたのである。最初に彼と出会ったのは06年9月のことだった。
 ギジェルモとはサン・ペドロ・スーラのホテルで初めて会った。会った瞬間からミュージシャンシップに富んだ、素晴らしい人間と感じたのを覚えている。ちょうど、その日はサン・ペドロ・スーラ郊外の劇場でコンサートがあると言うので、時間がもったいないからカリブ沿岸までいって、ガリフナの文化に触れてみたいと申し出たら、彼のたくさんいるガリフナ仲間の中から一番近くのトゥリウンフォという村を紹介してくれた。もちろん、機関銃装備の青少年凶悪犯罪集団マラスの危険から逃れる意味で、地元を知り尽くしたタクシー運転手も紹介されての取材旅行だったが、村では、ギジェルモの名前を出しただけで、すべてOK。写真、映像取材に対して、村の生活ぶりからガリフナの歌、踊りまで、短い時間なのに完璧にこなしてくれた。
 で、サン・ペドロ・スーラ郊外の劇場。決して立派ではない劇場だが、いかにも演劇からコンサートまで、この地域の文化に対する愛情を十分に感じさせてくる劇場だった。ギジェルモ・アンダーソンのパフォーマンスは物凄いものだった。はっきり言って、たった一枚のCDで聴いていたそれとは全く違うレベルの高いものだった。その昔、ブラジルで80年代に感じたものと同じような高揚感を覚えたものだった。この時、聴いたのは来日メンバーよりも大人数の編成だったが、ガリフナのパーカッション、踊りを加えてはいるが、まず、ギジェルモ・アンダーソンその人のクリエイティビティが大きく光る独特の空間だった。以下、彼とのインタビューを通して、彼の人と音楽についてレポートしたい。(訳:編集部 松本未生)

 

——日本ではまだ、ホンジュラスのことはほとんど知られていないので、まずホンジュラスの伝統音楽、伝統楽器というとどんなものがあるか教えてもらえますか。山岳地帯、海岸地方とかで随分違うと思いますが……。
ギジェルモ・アンダーソン(以下G) ホンジュラスの音楽は他のラテンアメリカ諸国と似ているけど、山岳地帯、内陸部の音楽はスペイン音楽の影響が非常に大きい、植民地時代の名残りだね。ギターやバイオリンなど弦楽器を主に用いるが、マリンバもよく使用される。マリンバはホンジュラス西部ではとてもポピュラーな楽器だ。アフリカ起源の楽器だよ。


——マリンバは、グアテマラのマリンバと似たものですか?
G そうだね、どちらもアフリカから由来したものだ。ホンジュラスのカリブ海岸地方ではガリフナ族の音楽の影響が色濃い。ガリフナ族音楽の最大の特徴はパーカッションと歌だけど、カリブ海岸地方にはもう一方でミスキート族の影響もある。ミスキートというのは、ガリフナに比べてもう少し先住民族の色濃い民族で、隣国一帯にまで分布している民族。ミスキート音楽の影響も、カリブ地方の東部ニカラグア国境付近にかけて残っているけれど、それでも伝統的なカリブ地方音楽、ホンジュラスの伝統音楽に色濃いのはやはりガリフナ音楽だね。


——ガリフナ音楽の特徴は?
G 伝統的ガリフナ音楽は何といってもパーカッションによって特徴付けられる。パーカッションがベースなんだ。ガリフナのパーカッションは主にタンボールで、低音・中音太鼓とそれに「第1タンボール」って呼ばれる高音の3種類のタンボールを使う。


——来日メンバーにいる二人のタンボール奏者は?
G 2人はそれぞれ、低音パートの「第2タンボール」と、主にメロディーラインを担当する「第1タンボール」奏者だ。それにマラカス、クラベ、カラコルなどの楽器も使用する。ガリフナ音楽に「パランダ」って呼ばれるスタイルの音楽があるんだけど、それにはギターとマラカスを主に使うね。


——ベネズエラのカリブ海岸地方にも「パランダ」っていう音楽がありますよね?
G ガリフナ音楽におけるスタイルとしてのパランダで、もちろんベネズエラにもコロンビアにもパランダっていう音楽があるけど、異なるスタイルの音楽なんだ。


——リズムは8分の6拍子系ですか?
G 8分の6拍子もあるけど、それはまた別の名前で呼ばれることもある。


——あなた自身、ガリフナの音楽仲間がたくさんいるそうですが?
G ええ、僕はカリブ海に面するラ・セイバという所で育ったけど、そこはガリフナの人々が多く居住している所なんだ。だから幼少時から僕はタンボール、そのリズム、それに踊りを肌で感じて育っている。僕は今ミュージシャンとしてバンドのメンバーと活動しているけれど、僕にとってそのリズムも音楽もとても馴染みがあるし、音楽活動をすることは自然なことなんだ。


——来日公演には、ダンサーも参加しますね?
G ええ、彼は男性ダンサーで、マラカスやパーカッション、コーラスも担当する。彼は2種類のガリフナの伝統舞踊を披露してくれるよ。僕が育った地域は漁村で、小さい頃からガリフナの人々とは付き合いがあった。僕がバンドを始めた時はギターの僕と2名のタンボール奏者だけで始めたんだ、彼らはガリフナ族だった。


——ホンジュラスにはガリフナ以外にもたくさんの少数民族がいて、その文化は消えかけていると聞きましたが。
G 人々の都会への流出や若者の興味が伝統的なものから離れていってしまったりして、ガリフナ文化は日々失われつつある、それは世界中の少数民族が抱える共通の問題だと思うけど。ホンジュラスにはまだ、これらの少数民族文化を保護するプログラムが少ないんだ。


——ホンジュラスにはガリフナ以外にどのような少数民族文化がありますか?
G 先ほども話したカリブ地方のミスキート文化、タワカ(TAHUAKA)文化、ペチ(PECH)文化、ホンジュラス領内のカリブ海諸島にはイギリス人の末裔が暮らしている。彼らは海賊の子孫やイギリスがカリブ海地域に植民地を築き始めた時代からそこに住み着いた人たちだ。


——次に、あなたのグループのメンバーについて少し話してもらえますか?
G 僕のバンド・メンバーはそれぞれ異なったバック・グラウンドを持っている。ドラムのメルビンはホンジュラスの首都テグシガルパの音楽学校で学び、ロックやジャズの影響を強く受けている。ギタリストはトロピカル・ミュージックの他にもロックの影響を強くうけているし、メンバーはみんなカリビアン・ミュージックを演奏するけれど現代音楽の影響も随分受けているね。彼らは別にアンサンブルでの活動もしていて、そのときはロックやジャズもプレイしているよ。後はガリフナのメンバーだ。


——あなたの代表曲「EN MI PAIS(私の国では)」は、ホンジュラスでは国歌のような存在で愛されていると聞きますが、この曲が出来た経緯を教えて下さい。
G そうだね、「国歌」って呼ばれるときも確かにあるよね(笑)。僕はカリフォルニアの大学(カリフォルニア大学サンタクルス校)でスペイン語文学を勉強した後、ホンジュラスに戻ったんだけれど、そのときホンジュラスという僕の国と再度出会ったんだ。多くの矛盾を抱えた国だと思った。豊かな自然と自然破壊、人々の愛情と汚職や不正……。これら多くの矛盾を新たに見つめなおした上で、それでもこの国を愛せるかということを考えて、結果的に僕の国ホンジュラスへの愛を歌った曲になった。この曲は国に捧げた歌だけれども、国歌や軍歌のような形式主義的な歌ではない。だから栄光とか名誉を歌った言葉なんてでてこないし、逆に、例えば「傷を負って飛ぶカモメ」とかそんな風に表している。


——カリフォルニアの大学就学中は演劇活動もしていたそうですが?
G 在学中に移民家庭の子供たちのための、スペイン語と英語のバイリンガル演劇カンパニーで活動していたんだ。そこでは演劇以外にも劇中音楽の制作についても多くを学ぶことができた。その後、ルイス・バルデスが主宰する「農民劇場(テアトロ・カンペシーノ )」というカンパニーで活動した。ルイス・バルデスは、後に伝説のロックンローラー、リッチー・バレンスの生涯を描いた映画『ラ・バンバ』を作った映画監督だ。とにかくサン・フアン・バウティスタという所でそのカンパニーの俳優兼ミュージシャンとして働いていた。この経験は僕にとって作曲を学ぶとてもよい機会となったし、同時に様々な他のラテンアメリカのミュージシャンと出会う場ともなった。そのときにラテンアメリカ音楽の他のジャンルを、たとえば南米の音楽とかキューバ音楽、アルゼンチン音楽とか……とにかく色々吸収したね。僕にとってはかけがえのない経験だった。


——大学卒業後はヨーロッパを廻られたそうですね?
G そうそう、ギターを抱えて、まだ若かったし元気いっぱいで。世界を知りたくてね。道ばたとかバーとかでギターを弾いてたんだ。ストリートの演奏で次の街に行く旅費を稼いでた(笑)。4ヶ月くらいかな。でもすごくめちゃくちゃな旅だったよ。オランダやドイツ、フランス、スペイン……。これも僕にとっては大切な思い出だな。ちょっと変だけどね。

 

 ギジェルモ・アンダーソンは、62年2月26日、ホンジュラスのラ・セイバに生まれた。幼少の頃から親族の影響で、詩や音楽に親しんで育った。家ではアグスティン・ララのボレロを歌い、ルベン・ダリオの詩を詠んだ。また、彼は小さい頃から、自分で楽器を創ったりする趣味も持っていたという。
 彼はまた、昆虫や植物の採集にも興味を持ち、その収集にも時間を割いてきた。また、釣りの好きな父親に、休みになるとランチャに乗ってカリブ沿岸の河や海に連れて行かれ、釣りも楽しんで育ったらしい。
 中学、高校とラ・セイバのサン・イシドロで過ごし、その頃にたくさんのフェスティバルに出演したが、新曲発表のフェスティバルで最初に優勝し、その後は数あるフェスティバルでいくつもの優勝を重ねた。他のアーティストにも作品を提供し、そのどれもが優秀賞に輝いたという。

 

——次にあなたの家族について、よろしければ教えて下さい。
G 僕が生まれ育ったラ・セイバという街は、バナナ・プランテーション会社が前世紀の初頭から進出して来た所なんだ。その意味でラ・セイバは他の地域から孤立した様な形で発展してきた。またラ・セイバの港からは世界中にバナナが輸出されていたから、ヨーロッパやアメリカ合衆国との窓口ともなっていた。特にニューオリンズが主要な貿易先となっていた。僕の祖父は合衆国からラ・セイバのバナナ会社に働きに来た北アメリカ人だった。


——あなたの祖父はアメリカ合衆国出身なんですか?
G そう、だから名字がアンダーソンなんだ。祖父はここへ働きに来て、ホンジュラスの女性と結婚したんだ。モスキティア海岸地方やバイーア諸島のように、ホンジュラスのカリブ海側地域で英語の名前を聞くのは別に珍しいことじゃない。昔からこの地域にはイギリス人も多くやって来たからね。


——ラ・セイバやホンジュラスにおける外国資本の進出とホンジュラスの政治との関係について聞かせてもらえますか?
G ラ・セイバのような街は経済的にバナナ会社に随分と依存して来た。それに現在のホンジュラスの国の政治体系にはバナナ会社が関与してきた部分が大きいと思う。バナナ会社が進出して来たとき、ホンジュラスにはまだ国の首都がなかったんだ。コスタリカのコーヒー会社のケースと同様だ。バナナ会社が進出して来た時には、ホンジュラスはまだ民主主義国家として機能していなかったから、バナナ会社は多大な権力を握ることが出来た。


——ホンジュラスという国の未来のために、あなたが音楽を通して伝えたいことについて聞かせて下さい。
G ホンジュラスは豊かな自然資源に恵まれた国だと思う。けれどもその開発にはまずホンジュラスの人々の意識を高める必要があると思う。この国は政治には恵まれなかった。特に汚職は深刻な問題だ。この国の人々にはまだまだ教育が行き渡っていないし、自分の意見に自信をもてない人が多い。だから僕は音楽を通してまず人々の心を元気づけたいと思っている。世の中には暗いニュースが溢れているけれど、だからこそ僕の仕事は人々を精神的に元気づけて、希望を持たせることだと思っている。少しでも自分の国を信じること、僕たちの国には大きな可能性があるということを気づかせたい。音楽を通してみんなに希望を与えて、勇気づけたいと思っている。

 

——最後に日本公演への抱負を聞かせて下さい。
G メンバーも僕も日本公演を非常に楽しみにしているよ。僕は国際交流の一環の「青少年の船」というプログラムで、20年前に1度4日間だけ日本を訪れたことがあるけど、でもそのときは公演はしてないし。とにかく日本にはとても興味があるよ。文学や歴史……それに日本の人々と交流して、人々が今の世界をどのように感じているか知りたいと思ってる。でもそれ以外にもアジア文化にはとても惹かれているし、僕は知りたがりやだから、芸術も食べ物も色々知りたいんだ(笑)。でも本当に日本文学、特に近代の日本文学には興味があるからこの機会に知りたいと思ってるよ。

 

 

 ギジェルモ・アンダーソンは、ガリフナの研究者としても有名な存在だが、当然ステージの語りやパフォーマンスから現れ出てくるのは研究者のそれではなく、むしろホンジュラスという国や自然、文化への愛情だ。社会の中でまだまだ「音楽」が力強く生きている国からの、最高の表現者がやってくる。心して迎えたいと思う。