フレーヴォ作曲家カピーバ、没後20周年

Carnaval de Capiba 『1 - Capiba 25 Anos Do Frevo』(1980)

Carnaval de Capiba
『1 – Capiba 25 Anos Do Frevo』(1980)

本名ロウレンソ・ダ・フォンセッカ・バルボーザ(1904〜1997)と言われてもピンとこないが、芸名カピーバとなれば、知名度はぐんと高まる。とりわけ出身地ペルナンブーコでは、故郷が生んだ最も愛される作曲家として知られているからだ。例えば、『大邸宅と奴隷小屋』などの著作でブラジル社会論を国際的に広めた社会人類学者ジルベルト・フレイリは、「カピーバは我らがもの。われわれのペルナンブーコ魂そのものであり、すなわち、その生き様こそ混じり気なしの真正ブラジル人のものだ」と書き記したほどだ。
そんな彼が、93歳の長寿を全うして亡くなったのが1997年12月31日だったから、2017年の大晦日がカピーバ没後20周年の日となったのだ。
ちなみに、その2か月前の10月、彼が1948年から50年近く住んでいた一軒家が空き家となって売りに出された時、幸いなことに州知事の決断でペルナンブーコ州歴史遺産に認定されたのだった。もっとも、ゼジータ未亡人は不動産売却収入が必要と反対したのだが。
改めてフレーヴォをおさらいしておくと、文献(地元紙)に始めて登場したのが1907年だったので、この年が「フレーヴォ元年」と認知されているが、当初は、カーニバルのマルシャ(行進曲)で即興メロディーのみの歌詞なしだった。それが1930年代にフレーヴォ・カンサゥンという現在のスタイルに進化していく。この新生フレーヴォの立役者が作曲家カピーバ(カピーバとは頑固親父のあだ名)であった。フレーヴォの歴史上画期をなした名曲“エ・デ・アマルガー(直訳:やってられねー)”は1934年の作品だが、彼は生涯で200曲以上も作曲しており、そのレパートリーはサンバやクラシックまでカバーしている。また、マヌエル・バンデイラ、ジョアン・カブラル・ヂ・メロ・ネト、カストロ・アルヴェスといった有名詩人たちの詞に曲を付けたことでも知られる。
彼は、バンドのリーダーだった父親のDNAを受け継ぎ、8歳でホルン、12歳でピアノといくつもの楽器を自在に操ったが、成人してからは昼間はブラジル銀行のキャリア銀行員として定年まで働き、30歳で名門レシーフェ法科大学を卒業、と二足の草鞋を履き続けた“ブラジル版小椋佳”であった。
作家アリアーノ・スアスーナが1970年から展開した「アルモリアル(名誉回復)運動」という大衆文化復興運動にコミットした中心人物の一人でもあった。だからこそ、社会史の泰斗フレイリが高く評価することになるわけだ。
(レシーフェ●岸和田 仁)


こちらの海外ニュースは月刊ラティーナ2018年2月号に掲載されています。
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