映画監督エクトル・バベンコの早すぎる死

映画界に輝かしい功績を残したバベンコ監督

映画界に輝かしい功績を残したバベンコ監督

エクトル(ヘクター)・バベンコ監督(1946〜2016)が、7月13日、サンパウロで亡くなった。享年70歳。死因は、長年患っていた悪性リンパ腫由来の心不全であった。

国際的に活躍した映画監督だったから、世界の主要メディアが大きく取り上げたのは当然だが、映画人としての業績についてはどのメディアも等しく記事にしていたものの、彼の出自についての記述は、大きく二つに分かれた。すなわち、彼のユダヤ性について、だ。例えば、NYタイムズは全く触れず、ブラジルの新聞もこの点を記載したのは少数派であったが、アルゼンチンの『ラ・ナシオン』は、アルゼンチンにおける反ユダヤ主義に耐えられなかったから、彼は19歳の時、反ユダヤ主義のないサンパウロへ移住したのだ、と明記していた。確かに、父親はウクライナ人一世で、母親はユダヤ系ポーランド人一世であったが、彼自身はその事実を声高に主張することはなかった。

通夜に参加ないし弔辞を寄せた有名人は少なくなく、俳優トニー・ハモス、俳優ラザロ・ハモスやカルロス・ヂエゲス監督といった映画関係者ばかりか、親交のあったジョゼ・セーハ外務大臣やエドゥアルド・スプリシ元上院議員といった党派を超えた政治家など、故人の交友の広さを見せていた。

アルゼンチンのマルデルプラタ出身だが、青年時代反政府運動にコミットし、欧州を放浪してから1969年、ブラジル・サンパウロへ移住、1977年には帰化ブラジル人となったが、彼の社会派映画のなかで、まず、世界の注目を集めたのが、『ピショッチ — 最も弱い者の掟』(1980年、日本公開名『ピショット』)だった。主人公のストリートチルドレンを演じたフェルナンド・ハモスが、出演から7年後、またドラッグの世界に戻り、結局警察に銃殺されてしまった、という映画的結末には、再び驚かされたが。

この成功を得て、ハリウッドに進出、1985年、アルゼンチン作家マヌエル・プイグの“獄中対話小説”を映画化した『蜘蛛女のキス』が大ヒットし、アカデミー最優秀監督賞にインディケートされ、主演のソニア・ブラガも米国へ“頭脳流失”することになる。

ブラジルに戻って制作した『カランジル』(2003年)は、1992年に起きた監獄での囚人虐殺事件を映画化したものだが、国内観客動員数400万人と興行的にも大成功し、監獄環境がいささか改善されるきっかけとなった。というように、ラテンアメリカ的現実と生真面目に向き合ったのが、バベンコ監督であった。

(サンパウロ●岸和田仁)


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